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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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Posted by 京つう運営事務局 at

2012年05月01日

富本記念館閉館

富本憲吉先生の生家の奈良安堵村の記念館が閉館します。
地元出身の辻本勇館長が私財かけて買い取り保全されていましたが、お亡くなりになられ地元の買い取りまないため、残念ながら閉館になる旨を富本憲吉研究家の第一人者の山本さんから連絡いただきました。

作品だけでも1点で1千万円超えたりする先生の作品が、これほど収集されているのをみる機会がなくなり残念です。

先生は乾山の後継者でもあり、その公私の助手が小山喜平。ご遺族から先生の道具などは我が家が受け継いでいます。円山陶芸協会はそんな先生の指導された理念を元の円山公園也阿弥で設立され、先生の京都の工房のあった鈴木清ゆかりの黒門に移して現在に至っています。

ぜひ 奈良まで足を運んでください。法隆寺の正倉院展開催中です。タクシーですぐの距離です。  

Posted by こやまあきゆき at 15:06Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉 人間国宝と「伝統工芸・日本工芸会」

富本が常に創作重視の美術工芸運動に取り組むなかで、衰退する地方の伝統工芸の惨状に憂慮していたのが、国の技官でもあり、石黒宗麿と鉄釉などの研究など古陶磁器研究でも知られていた小山冨士夫である。小山冨士夫は、富本の工房に通い、伝統文化・技術等の保護育成の手段として優れた作家を国が認定して保護する人間国宝制度の制定や伝統工芸展の開催の助言を求めている。工房で富本先生に質問し、その対策を理詰めで順に説明する富本と小山冨士夫のやりとりを、父小山喜平や祖父鈴木清はいつも聞いていた。その時の助言が今日の制度にたくさん生かされている。たとえば、日展が東京と京都の美術学校出身者が芸術院の中心に多くいるのに対して、地方出身者は、作品を見てもらうために上京する、2元を頂点とするピラミッド的構造に当時陥りやすかった点を指摘して、人間国宝は、全国の技芸別に一人選出されているので、保護する価値を認められた様々な分野から、その地方に1人選出される。また選出には、段階的複数の選抜を経なければならず、美学の研究者など、作家以外の専門家を審査員に加えて、特定の家系に有利になるような事のない様に配慮されている。さらに、一人の仕事か団体仕事かを明確にしているので、柿右衛門窯のように、当主個人でなく、窯の仕事に与えられている場合もある。これらの助言をたくさんしていた富本が、人間国宝になるのは、自作自演になる。当然本人は、自分が選出される事は、徹底的に辞退している。しかし、小山の最後のくどき文句は、人間国宝は新しい制度で、まだ世間的にまったく認知されていない。芸術院会員のように、最高の人物がもらうタイトルと評価されるには、まず誰がもらうかで決まってしまう。それには、元芸術院会員でもあった富本憲吉しかいない。つまり芸術院を脱退した富本がもらう位格のある賞であることで、「人間国宝」に選出される人物が、いかに高いレベルかの基準になる。
結局小山の再三の要望で受理することになる。無所属でも、当時日本で最も高く作品が売れるダントツの人気作家に新しいタイトルがついた。それは、「文化勲章」のステップだったのかもしれない。  

Posted by こやまあきゆき at 01:07Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉と「新匠工芸会」

「新匠工芸会」は、富本憲吉が中心となって、「日展」の作家や若手出品者の勉強会から始まった。前衛陶芸の先駆者「走泥社」の八木一男・鈴木治・山田光も「女流陶芸」のリーダー坪井明日香も若かりし頃は参加している。「工芸作家だけによる創作性を重視した美術団体」として、戦後、富本の芸術院退会後発足。鈴木清・近藤悠三・型染めの第1人者稲垣稔次郎らも行動をともにし、鈴木清の泉涌寺の実家は、国画会工芸部発足時に続いて事務局となった。仲間の中でローケツ染めの小合友之助や東京時代の教え子3羽ガラスの一人松風栄一ら、「日展」に残ったものも多い。また国展時代の同志で文展などに出品せずに「新匠会」で再合流したものもいた。美術展となった頃には、八木一男らは、独自の運動を展開。東京3羽がらすの藤本能道はモダンアート志向へ。様々な工芸運動が生まれてくる。この頃まだ伝統工芸が存在してないので、高島屋は、「新匠会」の大舞台だった。  

Posted by こやまあきゆき at 00:36Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉と「日展」

今日「日展」と呼ばれる組織は、現在も日本最大の美術団体で、現在第一部「日本画」第二部「洋画」第三部「彫刻」第四部「工芸」第五部「書」となっており、「工芸」には、陶芸・染色・織・木工・金工・ガラス・皮など多彩な創作工芸の世界の作家が活躍している。その中心的役割をはたしているのが、「芸術院会員」と呼ばれる人々。各分野の最高峰の作家と日展で評価された先生方である。膨大な出品者は、まず入選を目標に作品を出品。入選者のなかから、更に特選といった最高の賞を複数回いただくと、正会員として出品に無鑑査。やがて審査員になる。更に、芸術院賞やがて芸術院会員に選出されれば、会社なら取締役の最高幹部。しかし、最初に第四部工芸が設立されたのは、文部省の「文展」。つまり官展だった。その審査員に最初に抜擢された一人が、富本憲吉。当然、今でいう芸術院会員にも選出される。最初から審査される方でなく、審査する方だった。「文展」は、「帝展」・「新文展」「日展」への道を進むが、この「文展」の文部大臣賞を受賞したのが、やはり富本とともに「文展」に出品した祖父鈴木清。これは、審査される側の最高賞を受賞した事になる。富本自身は、このような賞の受賞は、建築家としてのコンペを別にすると、人生最後の「文化勲章」しかもらってないのではないか。常に審査する側のトップに君臨しつづけたから。  

Posted by こやまあきゆき at 00:21Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉と「国画会」

富本憲吉の出品のあと、工芸部が創設される事で、それまで陶工として活動していたどちらかといえば、美術学校などでも勉強していた窯元の息子が多かったが、自らの創作的作品(といっても伝統を踏まえたものに、ほぼ限定されていた時代だったが、意欲的な陶工のなかに、出品する人たちが出てきた。私の祖父鈴木清もその一人。山田喆らもそうなら、民芸運動のリーダーとなる河井寛次郎・濱田庄司らもその一人。やがて創作思考の富本を中心とする鈴木清らと民芸派の河井・浜田らは別行動を取る事になり、民芸派は民芸館に活動の舞台を一時移すが、結局国画会に復帰して、創作の第1部と民芸の第2部の2部制になり、やがて富本の次の舞台「文展」への移行のなかで、国展は、民芸派のホームグランドになる。  

Posted by こやまあきゆき at 00:03Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月27日

日本近代陶芸の祖と富本憲吉先生が呼ばれる理由

富本先生を、日本近代陶芸の祖と呼んだのは、美学の研究者達であるが、そう呼ばれてしかるべし訳がたくさんある。
1、美術館などでの美術展の対象が、日本画・洋画・彫刻であった時代、陶芸や染色・織・金工などの工芸は、職人の世界の匠の世界であり、創作的要素が多分に含まれていても、名工と称されても、芸術家と呼ばれる事はなかった。元々建築家で、東京の美術学校などの教授として、デザイン指導していた富本にとって、名建築を支えるグローバルな創作物の中に、絵画・彫刻の要素とともに、工芸の持つ要素は、同等であり、優れた仕事をするには、技術と創作性や独創性も含んだ、優秀な建築家・彫刻家・画家・工芸家時には造園家とか様々な人材が必要になる。ロンドン留学中に様々な欧州の美術運動・建築運動・工芸運動に触れ、工芸家が自分の展覧会を開いたり、専用ショールームを持っていたり、多様な価値観を持った作家が、時にクロスオーバーで交流し、刺激しあって活動している姿をみて、日本の徒弟制度のなかで、知識や技術が、一子相伝などで非公開になっている現状を憂慮していた。バーナードリーチとの出会いもさることながら、洋画の美術団体「国画会」に富本憲吉の部屋が設けられ、その作品が美術展の一角を占めたことは、画期的だった。  

Posted by こやまあきゆき at 23:50Comments(0)富本憲吉先生