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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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Posted by 京つう運営事務局 at

2012年05月25日

父から母へ 愛してる!

3ヶ月前に母が入院した。癌だったが早期発見だったので手術なしに完治できた。
63歳で癌の手術を受けた父は、心配して毎日朝から夜7時まで付き添っていた。
ようやく最後のレーザー治療が終わる日、父が救急入院した。

幸い病院だったため緊急入院。体中検査してまもなく退院する。
過労が原因だが、しばらく精密検査していなかったため、早期発見に加え完璧な対応で元気に退院できる。

最初の癌も母の付き添うで行った病院で、大橋病院の院長が癌の専門だったのですぐ気づいてくださった。今回も母の担当のスタッフ父の様子から救急での検査を準備してくださったので助かった。

父の様子を見に来た母に、「お前のおかげで2度命を救われた。愛してる!」と父がよれよれの字でメモ書きして渡していた。

母は、父の容態の方が心配で、父の書いている意味がまったく理解していなかったが、父が大丈夫だった事で、ほっとした安らかな顔で黙って父を見ていた。

私の子供のころ、父はシルクロードのいたので、いつも母子家庭状態で小さかった弟は、父が帰国したとき真っ黒なひげ面を見て怖がっていた。

今は、2人がいつもいっしょにいる。

我が家も、私と家内はほとんど別々の生活が長い。1年以上家族から離れていたことも。

しかし、不思議なくらい私の3兄弟は夫婦や家族でいっしょにご飯を食べる。

家族だけとは限らないが、友人 仲間でいいのだが、幸せはどこにでもある。
気付くかどうかだけ

これからの日本では100歳くらいまで生きるのが普通の社会になる
80ぐらいまで元気で働けて 最後までいっしょにご飯食べて語り合える家族や仲間が1番大切だ

6月3日 読売テレビ 大阪ほんわかテレビにかやまあきゆき出てます  

Posted by こやまあきゆき at 20:19Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2009年01月27日

フジタ平安京ギャラリー第1回で小山喜平作品展示

2009年2月1日(日曜日)
ホテルフジタ
正面舞台が、「フジタ平安京ギャラリー」として動き出します。

その第1回展示作品が、「京都芸術大学名誉教授」こやまきへい
他に、京大西アジア調査隊隊員である父のコレクションのペルシャ絨毯。
能楽衣装装束

北野天満宮剪定の紅梅・白梅

更に、京都の4つの神社のお札。(これは、また続報にて)

お楽しみに!


  

Posted by こやまあきゆき at 23:37Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2007年02月13日

小山喜平・吉田光邦京大第5次西アジア調査隊

私が、小学生の頃、父はいつもシルクロードの砂漠を車で走り回っていた。京都芸大に籍があったが、京都教育大学でも陶芸を教え、京大の人文の所長にもなられた吉田先生とも1年ほど中近東に行っていた。京大考古学の水野先生の研究調査。様々な資料と想い出。私が「バーミアン」の西の大仏を作ったのもこの時の研究の影響だ。パキスタンのパターンの村。武器を作っている村に連れて行かれたことも。首都建設現場に現地の役人と間違われて入れたことから、同行していた新聞記者が世界的スクープの写真を撮った話し。つり橋から車ごと転落しそうになった話。バーミアンが階段で上まで上れて、上から周囲の景色を見た時の話し。父の話は実に楽しい。現役の教官時代、京都芸大や教育大の学生がいつも遊びに来ていた。帰国直後の父は、長い髭と真っ黒な顔。とても日本人にも父にも見えなかった。朝日新聞に現地からの写真と記事が連載されていた。私はお陰でシルクロードの食文化の研究を始めたのだった。  

Posted by こやまあきゆき at 03:19Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2007年02月13日

笹川さんからキムイルソンさんまで。

陶芸家の作品は、手から離れると一人歩きする。父の作品は、奈良の「富本記念館」ははじめ、公的機関にもたくさんある。伏見の保健関係の建物の陶板壁画の作品もある。しかし、展覧会で買われた方からの後お話で、聞くところによると、モターボートで有名な笹川さんとこにも、北朝鮮のキムイルソンさんとこにも行ったそうだ。確かに祇園十兵衛さんや鰻の梅の井さんの店でも飾ってあって、偶然で作品に出会ったこともある。そういえばロックフェラーファミリーも遊びにきたっけ。  

Posted by こやまあきゆき at 03:19Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2007年02月13日

小山喜平と吉田光邦京大第5次西アジア調査隊

京大の研究紀要でも出ているが、父と吉田先生〈京大人文の所長のもなられた)2人での研究の時何度も命がけの場面に直面している。映画の場面のように吊橋から車で転落しそうになったり、武器作りの村人に突然取り囲まれて村まで連衡されたり、バーミアンの仏像の階段を登って上からの景色を見渡した話しとか。お陰で私は「バーミアンの西の大仏」を作ったのだ。〈大丸ミュージアム出品)しかし、私がシルクロードの食文化の研究をしているのは、他でもない父小山喜平の影響だ。  

Posted by こやまあきゆき at 03:11Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2007年02月03日

小山喜平のペルシャ青釉

父の代表作が、シリーズ化されていた。ペルシア青釉。京都芸大や京大のシルクロード関連の工芸調査隊員だった父が砂漠でみたブルーのモスクの美しさが、あの青を生んだ。金属は銅で、中火度。これは、銅でお盆やテーブルを細工している粉を、が出てくるそうです。嵐に流されないでね!  

Posted by こやまあきゆき at 02:20Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2007年01月27日

陶芸家小山喜平の横顔

生まれは愛知県。建具師の父小山源一の修行の関係で愛知県で生まれる。小山家は代々播州龍野藩で小姓を務めていた。下野小山の分家。祖父は、大阪で住友の銅の精錬に携わり、大阪では資産家として料理屋なども所有した。源一は家具商として「小山商店」を開き、難波・玉出など3店にまで拡張。喜平は、難波の家で育ち、空襲で自宅・本店焼失後は、玉出で育つ。住吉高校を経て家具と関連のある漆芸の勉強の為に、京都の美術学校に入学2年間学ぶ。この頃「関西美術院」で黒田重太郎らに絵画を学ぶ。新生大学制度導入により、改めて「京都美術大学の1期生」として工芸科に入り、富本憲吉先生との出会いから、陶芸科1期生として富本・近藤・岩淵各先生の指導を受ける。専攻科終了後初めての助手として美大の教員となり、富本先生の公私の助手を務める、平行して留学生の指導・京都教育大学・芦屋の滴水などの指導も行う。京都芸大・京都大学などの様々なシルクロードの工芸調査の隊長・隊員を務める。長く京都府作家協会理事を務め、京都市の文化功労者。ペルシャ青釉は有名。  

Posted by こやまあきゆき at 17:19Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2006年10月21日

織部とは。

陶磁器の織部は、銅で酸化で発色する色の代名詞ですが、本来は、古田織部の好みはら来ています。ところで、皆さんがよくご存知の古田織部。本名ではありません。本名は、古田重然(しげなり又は、しげてる)1544年生まれ。従五位織部正という官位を受けたときから、古田織部とも呼ばれ。利休七哲の一人で、美濃の出身。利休の死を見取った。後に同様に自害。しかし、彼の残した織部焼は、今日まで、茶陶のみならず、美濃焼の技法のひとつとして、そして今日和食器の代名詞の一つとして、親しまれている。なぜ織部が美濃焼の代名詞なのか?織部は朝鮮出兵に参加し、今日唐津焼で有名な、佐賀に赴任。この時、加藤四郎左衛門景延に唐津の窯を研究させて、美濃焼に取り入れさせた。今日陶祖としてその名を残したのは、古田ではなく、加藤で、美濃の多くの陶工が後に姓を加藤にしたために、姓では区別できずに屋号で呼び合う。この新窯から織部焼や黄瀬戸など美濃焼を代表する作品が、大量に作られていく。加藤は陶工として名を残し、織部は、文字通り陶器そのものとして、名を残した。  

Posted by こやまあきゆき at 01:52Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2006年09月20日

100回記念 小山喜平 父を、紹介します。

1日1回を目標に書いてきましたが、106日目でようやく100回目です。
記念に、「円山陶芸協会」顧問の父 喜平を紹介します。

小山喜平 京都芸術大学名誉教授。京都教育大学に陶芸科目開設にも尽力。京都大学西アジア調査隊隊員・京都芸大中近東調査隊隊員・日中友好芸術交流団第1回団長。京都市文化功労者。

昭和5年愛知県生まれ(父の仕事の関係で)大阪の家具商(建具師)の家に生まれる。祖父は、大阪住友で銅の精錬の技術に取り組んだ。物つくりの環境の中で家具と関係の深い漆芸を学ぶ為に京都の美術学校に入学。新制大学制度による京都美大の発足により、工芸科に入学。富本憲吉先生の来校によって設立された陶芸科を選択。以後先生の助手を務める傍ら、シルクロード工芸の技術研究に取り組み、「ペルシア青釉」を完成させる。長年京都市展・長浜市展・新匠会展 他多くの展覧会の審査員を務め、定年まで京都芸大と教育大の陶磁器選択のすべての学生の指導および留学生の指導を担当。教え子は、世界中に点在している。定年後嵯峨美他でも講座を持ったが、現在は、研究の集大成と作品の製作に専念しており、例外的に『円山陶芸協会』の指導を担当してくれている。
協会として、指導をうけたのは過去3000名を超えており、毎年学生だけだも100名以上が新たに指導を受けている。一般の唯一のオフィシャル倶楽部は『円山陶芸倶楽部』なお、『京都陶芸ネットワーク』は、7つの倶楽部で形成されており、他に『シンポ陶芸倶楽部』などの顧問も勤める。  続きを読む

Posted by こやまあきゆき at 03:25Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平