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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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Posted by 京つう運営事務局 at

2007年01月27日

華道との出会い 2 「草月」

草月流というと私には、忘れられない想い出が2つある。その1が、故勅使河原宏先生が、映画監督として、私の名付け親で、父小山喜平の師でもある「富本憲吉先生」をモデルにした映画を製作される予定だった。京都美術大学教授になられた京都時代の先生の専用工房が、私が生まれた母方の祖父「鈴木清」の工房の奥に開かれ、父小山喜平の工房も同じ敷地にあったので、(祖父や私の家も同じ敷地内にあった。)映画化の際、この鈴木家の登り窯を中心とした、通称「黒門」と呼ばれた一角を、越前あたりに再現して撮影したいとの申し入れもあり、撮影用の先生の作品は、助手だった父が、すでに数点制作するところまで行っていた。もちろん勅使河原宏先生は、我が家にもスタッフとともに出入りされていた。主役も、ツリバカの社長がやる予定だっただけに、「利休」に続く作品になっていれば、「富本憲吉」の知られざる素顔が知られて、より大きな意味があっただけに、残念。先生のご冥福をお祈りします。もう一つの想い出は、しまだいさんで開いた、草月流若手の陶芸研修で、私が指導した事。約60人が、各自自由にデザインした創作花器を、短時間に全員が作った。蔭山明さんが手伝ってくれて、2人で走り回って指導した。短時間に、あんなに多彩な作品を、交代で作っていただいたのは、初めて。デザインも多彩だった。  

Posted by こやまあきゆき at 00:33Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月27日

華道との出会い 1 「池坊」

私が陶芸を訓練校・工業試験場で3年間プロとしての訓練と研究に取り組んでいたとき、最初に陶芸仲間として私を受け入れてくれたのは、京都府陶磁器組合青年部の先輩達、つまり五条青年会の皆さんだった。当時は、高木岩華の高木さんが会長。堀尾さん、井上さん、日吉の井上さんらともこの時出会う。同じ頃に若手陶芸家200人位が集まって陶芸集団「チェラミスタ」が結成される。発起人は、近藤高弘・長谷川伸弘。名付け親はイタリアファエンツァ帰りの西貞幸。イタリア語で陶芸家を意味する。設立の時に、近藤君が私にも声をかけてくれたが、28歳で本格的な訓練のために訓練校に入った為、2年目も磁器を学ぶ為に、専攻科に進んだ私は、訓練校の規則もあり出品を見合わせた。翌年の第3回展が、池坊由紀さんの尽力と、保子先生のご協力で「チェラミスタ華の器展」に池坊の皆さんが、花を生けてくださった。ただし限定20.つまり20名が、自分の好きな花器を選んで生けるサバイバル。そして、光栄にも私の「母なる大地」という作品に生けてくださった。おまけに後日生けた方の花嫁道具の一つにと、お買い上げくださった。初めて自分の作品が、華道の花器として評価された瞬間だった。後日、子供関係のご縁や仕事場のご縁で保子先生や由紀さんと何度もお会いする機会を持つようになったが、子供の頃にもチャーチル会のご縁でお会いしているので、不思議なご縁という気がする。ところで、現代的な方向の池坊でよく使われるオシャレな花器の作家の一人が、清水焼団地の奥田さんで、お嬢さんの榮さんは、訓練校の1年後輩。つまりいっしょに勉強した仲だ。山科にも遊びに行った事もある。池坊は、日本華道の最も伝統有る流派として、今日全国・世界にも門弟がおられる。私は、華道に使われる様々な材料を、他のディスプレーに応用する為に、時々池坊のモダンナエレヴェーターに小汚いジャンパー姿で乗っているが、もう一つ。六角堂が京都のヘソで、応仁の乱などの後の荒廃した京都は、革堂と六角堂から再建された事を、忘れてはいけない。下京は、六角堂から生まれたのだ。  

Posted by こやまあきゆき at 00:13Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月08日

小山園のお茶

名前が小山だが、私の親戚ではない。しかし私の生まれた鈴木家に工房があった、富本憲吉先生の頃には、小山園のお茶が日常の生活に組み込まれていた。昨年の全国茶品評会で、1位から3位を独占したのは、鮮烈な印象を残したが、やはり日本のお茶の製造業者の最高峰に君臨するのは、間違いない。辻利と京はやしやは、甘党の店としては、「京はやしや」が1番好きだ。辻利の私が子供のころの社長の姪と同級生だったので、ある時期辻利一色になった時期もあったが、もともと泉涌寺の大谷園の番茶が日常の定番だった我が家と、一保堂のほうじ茶専門の家内とが結婚したわけで、ただ、あきらかに抹茶は、陶芸家の家だけに数日に1度は、日常的に飲んでいた。母の手作りの和菓子と。やはりこの辺りが京都なのだろう。初釜のお遊びで、家元のところでいただいた抹茶は格別だったが、家元襲名披露の夜の「夜ばなし」が忘れられない。  

Posted by こやまあきゆき at 23:49Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月03日

我が家の正月

新年明けましておめでとうございます。
今年は、ホテルフジタのお雑煮から始まりました。
初めて、お稲荷さんの初詣にJR奈良線で、稲荷駅まで行きました。私はGパンげしたが、家内と娘達は、着物でした。最近男の着物専門店も出来るほど男の着物ブームになってますが、京都ほど着物の似合う町はないでしょう。
夕方から、泉涌寺の実家で、両親・叔母・上の弟の家族と母のお節料理に舌鼓。ドリンクはシャンパンでした。子供達は焼肉(我が家は、牛肉とキャベツの炒め物が定番。食後はウノで盛り上がってました。親軍団は、お節と酒とおしゃべりで盛り上がりました。中でも叔母の息子と娘。
息子は六角で歯科医をしているのですが、巨漢。あるステーキの店で、普通2~300グラム男性が食べる炭火焼のステーキやさんで、私は400グラム食べるのですが、この従兄弟は、900グラム食べて大ジョッキ5~6杯平気なのです。妹の旦那は今人気のギターリストのマネージャー。なんでも若い頃のギター仲間で、相方の方がすごいテクニックで大ブレイクしたそうです。そんな話で正月早々盛り上がりました。やはり正月は、陶器焼かんと餅ばっかり焼いてました。  

Posted by こやまあきゆき at 23:50Comments(0)陶芸家 小山晶之

2006年11月26日

山口大亭・静・地球屋思い出の空間

昨夜の夕食は、「山口」西店で夕食を取りました。東店がお兄さん実家。
兄弟仲良く別で営業続けるために古い方はお兄さんの東店・花見小路西に入った、路地にかやくめしの『山口西店』はあった。東店は昔かやくめし山口大亭と書いた看板持ったおじさんが四条に立っていた。京都府陶工訓練校時代に、仲間たちとよく美術館やギャラリーめぐりをしていた。岡崎や寺町・三条や新門前・古門前。その後皆とよく行ったのが。「祇園亭」というおでん屋や、裏寺の「静」・阪急の南・西木屋町四条下がったとこの「地球屋」だった。祇園亭以外は今も健在。  

Posted by こやまあきゆき at 01:11Comments(0)陶芸家 小山晶之