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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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Posted by 京つう運営事務局 at

2006年07月31日

「富本憲吉と釣りバカな社長」

死の直前、勅使河原宏先生が、「利休」の次のテーマに選んだのが、「富本憲吉」
そこには、まだまだ書けないドラマがたくさんある。
その映画化。主役を演じるのは、「釣りバカ」で有名な社長さん。先生も若い頃つりがすきだった。実現していれば、文字通り、巨匠の再来。「展覧会」を見れば、わかります。
他に見所。
・先生は、白磁の壷は、途中で少し角度をずらして削っていました。なぜでしょうか?
 答え・・・李朝の大きな壷は、しばしば上半分と下半分を接続している。この為微妙に上下にずれが  生じるのを、わざと演出している。
・先生の作品。特に食器は、和食で使う砥部焼とあまり変わらないように見えるのはなぜ?
 砥部焼は、もともと鶴亀などの、置物などの産地だった。時代の変化で、需要がなくなり、産地全体 が、深刻な状況に直面していた時。現地を視察した富本は、李朝風の厚手に、自分がデザインした 磁器食器に富本風の絵や文字を書いた。そのご次々、現地指導したのが、芸大などの教え子達。
 彼らは、富本デザインを当初、そのままモデルにして、未経験の食器生産ヲスタートさせた。
・富本の赤絵・色絵には、久谷焼の北出家秘伝の調合の、渋い色絵・赤絵と、九州の柿右衛門の
 赤絵と同レベルの朱色の絵具を明るい金と共に使っている。
・晩年の先生の,銀彩はプラチナ。銀が変色して黒くなるのを嫌った。 とりあえず。いくつか。  

Posted by こやまあきゆき at 23:21Comments(0)

2006年07月31日

8月から近美でいよいよ「富本憲吉」展

日本の陶芸の概念をくつがえし続けた、巨匠の展覧会。いよいよです。

アーティストの皆さん。富本を知って、一番理解していただきたい事。

彼は、いかなるタイトルも美術団体も必要としていなかった。

彼が1人で歩いた道に、人が集い様々な芸術家や運動が連鎖して生まれていった。

あの「走泥社」や「モダンアート」や「女流陶芸」のリーダー達も、彼の教え子達であった事しってほしい。

君は、何が作りたいのか?どんな事に興味があるのか?

自分の価値観ではなく、一人一人の人間の持つ価値観を引き出していった。

作品による、彼の作家としての評価もさりながら、数え切れない種を植えた功績は計り知れない。  

Posted by こやまあきゆき at 00:49Comments(0)

2006年07月31日

富本憲吉と官展

今日芸術院会員と肩書きがつくだけで、人間国宝と並んで、最高の芸術家の名誉と思われているが、唯一、この肩書きを放棄した人物がいる。
その人こそ、我らが富本憲吉先生である。
そもそも、日本には、日本画・洋画・彫刻の分野で、様々なグループが誕生し、時に離合集散しながら、日本の芸術を開花させた。今日芸大と名の付く大学も母体が絵画の画塾だったり。
自然と、文部省が国家的芸術運動の統合を呼びかける中で、第1部日本画・第2部洋画・第3部彫刻が、日本の芸術のジャンルとして認定された。これに続いたのが、第4部工芸。もともとすぐれた工芸の名家の師弟が、絵画や彫刻を学ぶケースが多かったこともあるが、陶芸家と称して、リーチとともに展覧会活動をはじめた富本自身が、当初建築家であり、東京の美術学校でデザイン教育に当たっていた事の存在が大きい。肩書きがなくても当時すでに一般の工芸品とはケタ違いで作品が扱われ、版画は白樺派の表紙を飾っていた。戦後無官からの再出発をしたが、晩年設立の相談に乗っていた人間国宝に自ら選出される事は、強く固辞していた。最初の認定を誰にするかで、人間国宝の価値が決まる。と逆に小山富士夫にせっとくされての受賞。おまけに親友の一人川端康成と一緒にと説得されて文化勲章までとってしまった。当時桁違いの人気作家を、官が取り込んでいった経緯はほとんど知られていない。  

Posted by こやまあきゆき at 00:40Comments(0)

2006年07月31日

富本憲吉と民芸運動

民芸運動は、柳宗悦を中心に起こった。浜田・河井2大巨頭に、版画の棟方・染色の芹沢・漆芸の黒田。英国の陶芸家、バーナードリーチなどが、創生期の主な登場人物。
国画会と民芸館が運動の舞台となって、時に富本の名は、民芸と対立したような表現もあり、完全に、その名が、民芸派の展覧会や紹介からほとんど姿を消していた。
浜田は、富本が亡くなるまで、展覧会には駆けつけ、近況報告を直立不動で語っていたし、棟方が版画家になるきっかけも、富本の助言がきっかけで、棟方は、記念に富本から贈られた棟方の陶印を、作品に使っていた。
多くの評論家や研究者が誤った解釈をしている1番大きな原因は、柳・富本・浜田・河井の民芸館設立に連名した4人が、皆大変裕福なエリート階層であり、欧米化の波の中で日本各地の伝統的民衆的芸術とも呼ぶべき工芸品が失われていく事に、危機感を持っていた事である。柳・浜田・河井が自らの創作活動も民芸の理念を、ベースにしていったのに対し、富本は、コレクターとしての収集や保全ノサポートと、自身の芸術家としての創作活動は、あくまでも個人の持つ個性や創作性を重視した事。
国展も富本の部屋がきっかけで、洋画などの創作活動に工芸部門が設置されるが、やがて創作的第1部と民芸の第2部に別れて審査されるようになり、富本も舞台が、文展・帝展へと移っていく中で、
国展が、民芸派の舞台になっていった。
あくまで、当初から客観的民芸擁護と、作家としての自身の創作重視の活動を分けていたのは、おそらく富本位ではなかったか。それが、芸大などの芸術教育や様々な教え子の多彩な芸術運動に広がっていく。・・・・・参考・大原美術館・民芸館・大山崎山荘・河井寛次郎記念館  

Posted by こやまあきゆき at 00:21Comments(0)