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アート/芸術  |東山区

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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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Posted by 京つう運営事務局 at

2012年01月22日

高校最後の授業

2012年1月25日
10年間担当してきた、長尾谷高校京都四条高の「円山創作陶芸実技」が、最後の授業を迎える。
「京都円山陶芸協会」が、正規の授業として指導してきた「つくば開成高校京都高」とともに、毎年100人近い学生さんに、成形 轆轤 絵付  

Posted by こやまあきゆき at 16:24Comments(0)陶芸家 小山晶之

2012年01月06日

幻の人間国宝

日本に3人の幻の人間国宝がいる。

何故彼らが幻の人間国宝と呼ばれているのか?

日本には、人間国宝に選定されない優秀な陶芸家は、山ほどいる。

しかし、単に作家や作品の評価だけでなく、歴史が3人を幻にした。

3人の名は、鈴木清 河井寛次郎 加藤唐九郎
3人には、全く異なった伝説がある。

鈴木清 京都五条坂 清水寺の門前に工房があった。清水六兵衛他 多くの陶芸家とは姻戚関係にある。父初代鈴木清湖は、京都で初めて磁器人形を作り、パリ博覧会で銀牌を受賞。泉涌寺の800坪の竹林を購入。登り窯を開窯した。清は、若かりし頃楠部弥一らと赤土社を結成。また、彫刻家としても活躍。日本近代陶芸の祖 富本憲吉が開いた4つの美術団体で唯一、行動を友にした盟友。晩年全盛期の富本の工房は、鈴木家の敷地内の清の並び。鈴木家は、後の人間国宝達の社交場でもあり、ロックフェラー他海外からも多くの方々来訪した。走泥社の名付け親中島清も日吉ヶ丘高校の陶芸指導の通り道、いつも立ち寄っていた。人間国宝制度制定の様々な規定は、技官であった小山が富本からもらったアドバイスが様々な形で取り入れられている。アドバイスをした富本や鈴木は当初から自分達が受賞する事は考えていない。ただ、おおくの方に集まっていてただき、日本各地の優れた工芸家の作品を集める為に、2回選抜展が開催された。そして、人間国宝制度を高く評価されるものにするためにも、固辞していた富本に最初の人間国宝が与えられたら。染色家稲垣と鈴木は、晩年まで交遊を深めたが、富本より早く病床に。しかし、富本がぬたりの支えになった。富本の訃報を知って、二人は相次いで日をおかず他界した。来世でもまた3人、熱く語り合っているだろう。2回の選抜展の核メンバーでたった一人人間国宝にならなかったのが鈴木清である。富本らのアドバイスで、特定地域に人間国宝が固まらなァように、一芸で一地域一人と決められている。したがって、分業化が足り前だった時代、例えば色絵磁器の最高峰の柿右衛門は、個人ではなく窯として認定されている。富本の晩年全盛期の陶箱は、パリ博覧会で銀牌を受賞した鈴木家の高度な磁器技術が使われている。実際文化財になった陶箱は、50個制作され立派に完成した2つだけに色絵されたもので、もちろん鈴木家の登り窯で焼かれた。富本憲吉鈴木清の相次ぐ他界の後、富本の工房は再び現鈴木家当主爽司が受け継ぎ、その一角で修修業した弟卓司は、御室に工房を構え、色絵磁器作家として父の後、日本工芸会の作家として活躍。また、富本が残した絵の具や道具は、富本の公私の助手を務めた京都芸術大学名誉享受小山喜平に遺族から受け継がれた。
同じ技術で一地域に人間国宝は、一人。

河井寛次郎 誰もが知る民芸を代表する作家。私が大好き作家である。試験場で研究した釉薬の指導。清水六兵衛家との関係から、現在の地に残る登り窯 自宅で独自の仏教の教えと感性 釉薬の巧みさ その一方で最後まで公募展などで賞などを受けるのを固辞した。その独自の哲学は、沢山掛け軸などに残されている。
中島清と五条坂二年坂の井上家の家を借りていた小山喜平は、河井寛次郎の時代に、この窯で作品を焼いてもらっていた。大学時代の小川森野らが、当時の美大の学生達の世話をしていたからだそだ。

加藤唐九郎 いうまでもなく。文化財に認定された壺が、実在の作家の作品だった事件の作者。野人的風貌とは裏腹に、チェックのブレザー パソコンもつかい、大陶芸辞典を編纂 現在は、淡交社から出版されている。上記の鈴木家などは、4人も初版本で書かれており、絵師の家柄だったことがわかる。  

Posted by こやまあきゆき at 22:58Comments(0)陶芸家