京都円山陶芸協会
https://m108.kyo2.jp
芸術の都京都を紹介する、陶芸家 小山晶之の芸術ブログ
名付け親は富本憲吉 祖父鈴木清 父小山喜平の工房が並んだ東山の通称黒門と呼ばれた鈴木家の登り窯を中心とする一角は、パリ博で銀牌を受賞した初代鈴木清湖が約1000坪の竹林を購入し、大正時代に五条坂から移り住んだ土地。敷地内には、複数の登り窯や工房と一族の住まいが並び、京都美術大学初期の学生も焼いていた。現当主は叔父鈴木爽司。鳴滝のい鈴木卓司や山科の鈴木健司もここから巣立った。小山晶之は、修学院離宮前に工房を開き、六地蔵に開窯。円山公園東観荘也阿弥に円山陶芸クラブを開き祗園アートスペース八源をホームグランドに日展 京都市展 チェラミスタ展 京焼清水焼作家協会展など200回以上の展覧会に出品している。代表作 バーミヤン 心のブラックホール 尚 也阿弥庭園は、小山晶之作品常設。
円山陶芸協会は、30年近く私が指導してきた陶磁器の組織で、今教え子が、3000人近くいます。京都芸術大学名誉教授で、父の喜平といっしょに、学校などでも「京都円山流」の陶芸を指導しています。
ja
こやまあきゆき
2013-05-23T19:38:26+09:00
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花街景観バトル
https://m108.kyo2.jp/e415225.html
先輩が来られた。
花街周辺のお店の会合の後だそうだ。
以前から花街である東京資本のグループとほかのお店とでいろいろもめている話は聞いていた。
私の食べ歩きブログでは、いいお店は紹介するが、悪い店や悪口は書かない。
ある意味現場で頑張っているスタッフの事が頭をよぎるし、いい悪いは個人差があるから
しかしあるグループに関しては京都の各地で反対運動が起きたりいろいろもめている話は聞いていた。
今回もその不満話から始まった。
値段を下げるためにマグロにやすもんの油と混ぜてネギトロ出していて許せん。京都でこんなまずいもん出されて評判落とされて残念。どうせ観光客は1度しか来ないと思っている。などなど。狭い路地に野菜掘り出して花街の人から着物が引っかかるとクレームが出ているとか。散々不満・愚痴を聞かされてきた。こちらはノーコメント。ただ美味しいお店・いいお店として紹介したお店がそのグループで1軒もないだけ。みせかけだけだったから。
たしかに人気のおばんざい屋さんでも野菜表に出したりしている。ただ、これからの夏場に出してたらほんとにいいもん食べさせる気がないのを宣伝しているみたいだ。ある人が先日カレーを弁当に作って持っていったら30度以上の暑さで腐ってた。そんな京都で、炎天下食材を掘り出してるお店の気が知れない。それだけパフォーマンスばっかりで中身がない証明。
京都の街は決して他府県から来た店を仲間ハズレにしない。だから外国人の店もどんどん出来ているし、他府県進出のお店もどんどん増えている。ただ、いい加減な事を1度やったら京都の街では許されない。「あんないい加減なもの平気で出している」そんな話はすぐに京都中に広がる。だからいいお店ならいい話が広がる。東京でもどこ出身でも関係ない。
150万人中15万人は学生。多くが他府県出身。外国出身は4万人だそうだ。他府県出身のオーナーを支援する人材は京都にもたくさん住んでいる。ただし、これだけいろんな人から悪口・不満を語られてるお店が持ちこたえた試しがない。
京都で失敗は1度限り。2度の失敗は許されない。たくさんのお店の名前を変えても、あちこちのお店がこれだけ京都人に嫌われていて、「京都本」にいっぱい紹介されていて、有名になるほどちゃんとしないと許されない。
京都で10軒超えてたのに姿を消したお店は山ほどある。
そうなるか、京都の本物に仲間入りするか。時間が答えを出してくれる。
ちなみに京都のベタベタ京都出身のグループでもできては潰しを繰り返しているお味もある。オーナーが京都人の有力者でも同じことだ。いいお店が残り、いい加減なお店は消える。
イギリスジョーク集かなにかに書いてあったが、オイルショックのころイギリスのお城や1等地をアラブ人が買いあさった。それを質問された英国人が「土地をアラブまで持っていけないから、そのうち還ってくるだろう」と答えたそうだが、京都もそんな感じで次々ほか資本が進出しては消えていく。祇園や先斗町は変わらない。
「祇園郵便局」が可愛いと言われている、「上七軒」はお茶屋そのものです。
「みたか?」「見たね。」
花街周辺のお店の会合の後だそうだ。
以前から花街である東京資本のグループとほかのお店とでいろいろもめている話は聞いていた。
私の食べ歩きブログでは、いいお店は紹介するが、悪い店や悪口は書かない。
ある意味現場で頑張っているスタッフの事が頭をよぎるし、いい悪いは個人差があるから
しかしあるグループに関しては京都の各地で反対運動が起きたりいろいろもめている話は聞いていた。
今回もその不満話から始まった。
値段を下げるためにマグロにやすもんの油と混ぜてネギトロ出していて許せん。京都でこんなまずいもん出されて評判落とされて残念。どうせ観光客は1度しか来ないと思っている。などなど。狭い路地に野菜掘り出して花街の人から着物が引っかかるとクレームが出ているとか。散々不満・愚痴を聞かされてきた。こちらはノーコメント。ただ美味しいお店・いいお店として紹介したお店がそのグループで1軒もないだけ。みせかけだけだったから。
たしかに人気のおばんざい屋さんでも野菜表に出したりしている。ただ、これからの夏場に出してたらほんとにいいもん食べさせる気がないのを宣伝しているみたいだ。ある人が先日カレーを弁当に作って持っていったら30度以上の暑さで腐ってた。そんな京都で、炎天下食材を掘り出してるお店の気が知れない。それだけパフォーマンスばっかりで中身がない証明。
京都の街は決して他府県から来た店を仲間ハズレにしない。だから外国人の店もどんどん出来ているし、他府県進出のお店もどんどん増えている。ただ、いい加減な事を1度やったら京都の街では許されない。「あんないい加減なもの平気で出している」そんな話はすぐに京都中に広がる。だからいいお店ならいい話が広がる。東京でもどこ出身でも関係ない。
150万人中15万人は学生。多くが他府県出身。外国出身は4万人だそうだ。他府県出身のオーナーを支援する人材は京都にもたくさん住んでいる。ただし、これだけいろんな人から悪口・不満を語られてるお店が持ちこたえた試しがない。
京都で失敗は1度限り。2度の失敗は許されない。たくさんのお店の名前を変えても、あちこちのお店がこれだけ京都人に嫌われていて、「京都本」にいっぱい紹介されていて、有名になるほどちゃんとしないと許されない。
京都で10軒超えてたのに姿を消したお店は山ほどある。
そうなるか、京都の本物に仲間入りするか。時間が答えを出してくれる。
ちなみに京都のベタベタ京都出身のグループでもできては潰しを繰り返しているお味もある。オーナーが京都人の有力者でも同じことだ。いいお店が残り、いい加減なお店は消える。
イギリスジョーク集かなにかに書いてあったが、オイルショックのころイギリスのお城や1等地をアラブ人が買いあさった。それを質問された英国人が「土地をアラブまで持っていけないから、そのうち還ってくるだろう」と答えたそうだが、京都もそんな感じで次々ほか資本が進出しては消えていく。祇園や先斗町は変わらない。
「祇園郵便局」が可愛いと言われている、「上七軒」はお茶屋そのものです。
「みたか?」「見たね。」]]>
京都の名建築
こやまあきゆき
2013-05-23T19:38:26+09:00
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京都府庁旧館一般公開で、髪の毛テント?
https://m108.kyo2.jp/e360597.html
府庁旧館見学に行きまた。日露戦争の頃に、限られた予算でよく出来また。
色々な展覧会もありますが、一番驚いたのが、髪の毛テント。
雨でも大丈夫。
正面から入ってね。
色々な展覧会もありますが、一番驚いたのが、髪の毛テント。
雨でも大丈夫。
正面から入ってね。]]>
京都の名建築
こやまあきゆき
2012-03-28T17:06:34+09:00
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法然上人800年大遠忌『知恩院』三門楼上公開
https://m108.kyo2.jp/e42144.html
哲学の道の真ん中に「法然院」という寺院がある。住職の梶田さんは、私の同級生である。
学生時代、古川町商店街のお惣菜店で働いた時期がある。
2人の娘は、家内の菩提寺の関係で『華頂幼稚園』でお世話になった。小学校がなかったのでそれぞれの道に進んだが、当時小さな2人をつれて、家族4人で何度あの坂・あの石段を上がった事か。
私は数年間を円山公園の奥く料亭「いそべ」の更に山手「左阿弥」の手前にある「也阿弥」が正面に再建された「東観荘」の2階の奥座敷で、山に向かってロクロをひく陶芸の日々を送った。
お茶の時間に「長楽寺」の石段脇にある「紅葉庵」で京都の町を眺めながらあんみつを食べた。
春は桜。夏は夕日。秋は色づく楓。そして冬の雪景色。
「左阿弥」も京都で最初のホテル「也阿弥ホテル」になった「也阿弥」も『安養寺』の6つのお寺の一つ。元々「延暦寺」と同じ「天台宗」のお寺。ここで修行をされたのが、浄土宗の「法然上人」と浄土真宗の「親鸞聖人」。
現在も全国公演中の「法然と親鸞」という「前進座」のお芝居は、この念仏を唱える事で皆が救われる教えを説いた話が描かれている。
現在「時宗」のお寺になった「安養寺」。しかしその号「円山」が円山公園の名で市民の憩いの場になっている。
この東山の草案跡に建立された浄土宗総本山「知恩院」。東山から京の町を見渡す地に徳川2代将軍秀忠が元和7年(1627年)に建立した現在の山門。
釈迦牟尼仏の極彩色の像。見事な龍の描かれた天井。
今、800年遠忌で特別公開されている。
法然上人は、自らを祀る事を良しとしなかった。念仏のあるところに私がいる事を教えをつる事の中で、多くの人々にその教えは広まった。親鸞聖人の廟もその東と更に清水のたもとに東西それぞれ祀られている。
「前進座」公演初演で、中村梅之助・嵐圭史演じる法然上人・親鸞聖人(浄土真宗では、近年宗派によって浄土宗の法然聖人というように、親鸞聖人と同じ上人の呼び方を、聖人に改めた宗派もある)おお芝居は、各宗派の門跡が揃って観劇される歴史的な出来事が「南座」で実現した。
念仏信仰は、この地で誕生した。
法然聖人は、祀られる事を望まなかったが、その教えを受け継いだ人々の想いが100年単位での大遠忌としての歴史を積み重ねている。生涯まず間違いなく1度出会えれば幸いな年が今年である。
その詳しい歴史は、http://www.chion-in.or.jp/images/common/hd_bk01.jpg
比叡山から稲荷山まで連なる東山36峰の中央に
「華頂山」は聳え立つ。かつてここで念仏の悟りを開いたその教えを静かに包み込んで。
学生時代、古川町商店街のお惣菜店で働いた時期がある。
2人の娘は、家内の菩提寺の関係で『華頂幼稚園』でお世話になった。小学校がなかったのでそれぞれの道に進んだが、当時小さな2人をつれて、家族4人で何度あの坂・あの石段を上がった事か。
私は数年間を円山公園の奥く料亭「いそべ」の更に山手「左阿弥」の手前にある「也阿弥」が正面に再建された「東観荘」の2階の奥座敷で、山に向かってロクロをひく陶芸の日々を送った。
お茶の時間に「長楽寺」の石段脇にある「紅葉庵」で京都の町を眺めながらあんみつを食べた。
春は桜。夏は夕日。秋は色づく楓。そして冬の雪景色。
「左阿弥」も京都で最初のホテル「也阿弥ホテル」になった「也阿弥」も『安養寺』の6つのお寺の一つ。元々「延暦寺」と同じ「天台宗」のお寺。ここで修行をされたのが、浄土宗の「法然上人」と浄土真宗の「親鸞聖人」。
現在も全国公演中の「法然と親鸞」という「前進座」のお芝居は、この念仏を唱える事で皆が救われる教えを説いた話が描かれている。
現在「時宗」のお寺になった「安養寺」。しかしその号「円山」が円山公園の名で市民の憩いの場になっている。
この東山の草案跡に建立された浄土宗総本山「知恩院」。東山から京の町を見渡す地に徳川2代将軍秀忠が元和7年(1627年)に建立した現在の山門。
釈迦牟尼仏の極彩色の像。見事な龍の描かれた天井。
今、800年遠忌で特別公開されている。
法然上人は、自らを祀る事を良しとしなかった。念仏のあるところに私がいる事を教えをつる事の中で、多くの人々にその教えは広まった。親鸞聖人の廟もその東と更に清水のたもとに東西それぞれ祀られている。
「前進座」公演初演で、中村梅之助・嵐圭史演じる法然上人・親鸞聖人(浄土真宗では、近年宗派によって浄土宗の法然聖人というように、親鸞聖人と同じ上人の呼び方を、聖人に改めた宗派もある)おお芝居は、各宗派の門跡が揃って観劇される歴史的な出来事が「南座」で実現した。
念仏信仰は、この地で誕生した。
法然聖人は、祀られる事を望まなかったが、その教えを受け継いだ人々の想いが100年単位での大遠忌としての歴史を積み重ねている。生涯まず間違いなく1度出会えれば幸いな年が今年である。
その詳しい歴史は、http://www.chion-in.or.jp/images/common/hd_bk01.jpg
比叡山から稲荷山まで連なる東山36峰の中央に
「華頂山」は聳え立つ。かつてここで念仏の悟りを開いたその教えを静かに包み込んで。]]>
京都の名建築
こやまあきゆき
2008-02-13T00:20:57+09:00