「京展」の思い出

こやまあきゆき

2007年06月12日 00:11

京都市美術館で、京都市による美術展「京展」が開催されている。
実は、陶芸家である私は。過去に180回以上の、美術館やデパートの特設会場やミュージアム、画廊などの企画展などに出品しており、現在も年数回出品依頼がくるが、もう10年ほど、プヤライベートな企画展以外出品していない。
そんな私が、陶芸家として展覧会に出品し始めたのは、「五条青年会会員」として参加した、文化芸術会館の「陶展」や「たちきち本店での京都の若手陶芸家展」。京都五地区の若手陶芸家150名での「京都市ギャラリー」での展覧会などであった。
料理界から飛び込んだ人間として、陶磁器に専念している同世代の仲間入りさせていただいているだけでもおこがましいのに、作家気取りで公募展に出品するのは、自分の行き方には合わない。
自分で料理と食空間を舞台にしながら独自の世界を作っていこうと、祇園に「アートスペース八源」を、若手6人の専用ギャラリーとして、毎月テーマを変えた企画展に専念する計画だった。
共鳴して、参加してくれたのは、公募展でも実績を上げていた浅田弘道君と加古勝巳君。伝統工芸の木村先生の長男の木村展之君。走泥社の辻先生のもとで修行したオシャレなクラフト系が得意の岡田保博さん。そして釉薬の恩師、京都市工業試験場で指導を受けた木村隆先生。
つまり、「土味と焼」「立体造形」「釉薬とロクロ」「デザイン」「釉薬」の才能あるメンバーを集めたわけ。
自分にない技術やセンスを他のメンバーから学び合おうと考えた訳。
私は、企画力と料理に精通している事。で、陶芸の才能は?・・・・・・
たくさんの企画展を開いて、たくさんの作品をつくり、6人とも超売れっ子作家になって、展覧会の出品話がメジロ押しだった。しかし、私はこれといった実績も肩書きもない。むしろ自分なりの人生を満喫していたのだが・・・
前置きがながくなったが、まずは「京展」に皆出品するので、いっしょに出さないか?と当時の仲間に誘われて初出品。初入選。ところが、9人の審査員のなかには父がいる。
実は、私が料理の世界にいたので、他の審査員の方々は、父の3人の息子は誰も陶芸はやっていないと思っておられたので、展覧会当日まで、私と父が親子である事は誰も知らなかったし、父は、料理の道に進んだ私が、片手間に陶芸をする事に対して猛反対していた。
せっかくの料理でがんばってきた道を進めと。当然当時の出品もあくまでも腕試しのつもりと、父や周辺の先生方へのデビュー宣言のつもりで、もとより初出品で入選は期待していなかった。
 父も驚いたようだが、名前を見て審査するのではないので、膨大な出品作が次々運ばれてきて、各審査員が評価して数点が選ばれる。決して甘い世界ではない。
天然松灰を釉薬につかったので、後に伝統工芸の先生方に釉薬の事をずいぶんほめられた。
しかし、日がたつにつれて親父が審査員なら入選するのも当然の声。実は、私の身内は当時12人の作家がおり、半数以上が審査員になっている。毎回変わっても1人か2人は身内がいる。
 おまけに全員所属団体が違う。皆、若いときに親の七光り呼ばわりされるのを嫌って、親とは別の道を歩んだからだ。しかし、私にしてみると、どの公募展んびも身内の審査員がいる。
 後日、更なる挑戦で、四回身内が審査員にいない『日展』に無所属で出品した。
結果は、落選・入選・落選・入選。・・・しかし2度入選すると、無所属がむづかしくなり、結局出品そのものを、取りやめた。
 私にとっては、うれしい思い出とくやしい思い出が交錯するが、結果よりも挑戦した事で学んだ事が実に多かったし、今でも出品してよかったと思う。

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