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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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Posted by 京つう運営事務局 at

2014年02月25日

祇園八源会 岡田さん 木村先生

先日、陶芸仲間の岡田八重さんに四条大橋で会った。
八重さんは、私が五条坂にあった「京都府陶工職業訓練校」に磁器成形を主とした専攻科の委員長をしていた時の絵付け・図案科の取りまとめ役的存在だった。

土曜日の半ドンの授業の後は、美術館やギャラリーを私が案内役で回った。
大体7人の女性が参加し、男性はフォト伊藤と2人。フォト伊藤は写真が趣味なので、撮影係。彼も図案化。
現在九州で頑張っている中村さん・ユキチャン・竹野さん・成形科のミナチャン・臼井さんを取りまとめる八重さん。
素敵な女性ながらお母さんのようにみんなから慕われていた。

訓練校卒業後試験場に進んだ時みなちゃんもいっしょだった。
成形科の加古や浅田や三浦もいっしょ。

その年祇園に「アートスペース八源」がOPENして「鈴木清展」が開催された。
私の祖父。富本憲吉と全ての美術団体で一緒だった唯一の陶芸作家。
その富本先生の工房が私も生まれた鈴木家の黒門内に並んであったために、
富本先生が最初の人間国宝に選ばれ、先生と型染めの稲垣先生と鈴木清は、ほぼ同時に亡くなった。
実は先生よりも他の2人の方が先に寝たきりに。
先生が元気なあいだは死ねんと祖父は言っていたそうだ。

先生が亡くなられて、2人は後を追うように亡くなった。

最初の全国から選抜された伝統工芸の1~2回展出品者のほとんどが人間国宝になった中で、同じ地域の2人はならない規則もあり、
祖父は無冠の陶芸家になったが、河井寛次郎同様に何も望まなかっただろう。

八源は、祖父の後黒門の一族の展覧会が開かれた。
長男鈴木爽司は日展現代工芸で活躍・伝統工芸にも出している。次男鈴木卓司は伝統工芸から作家協会理事に、長女の婿小山喜平は京都芸大名誉教授・新匠工芸会から作家協会理事に、いとこの鈴木健司は日工会・日展で活躍・私は日展は2度無所属で入選・チエラミスア代表幹事だった。

そのあと、私のショールームに1年使い、同期の浅田や加古 木村展之 そして八重さんのご主人岡田保博 木村先生と私。6人は八源の小垣ご夫妻と八源会を作って研鑽した。

岡田さんは、辻晋六工房で学び今、水呑で陶芸をしている。八源久智作陶芸クラブで教えている。
木村先生は、釉薬の先生。和敬学園の子供達にも教えている。

どちらもハンサムで素晴らしい人柄だ。

この年になっても、この時のメンバーは間違いなかった。
クラフト系のおしゃれな岡田さん。油滴天目の木村先生
会いたい方は祇園八源で。  

Posted by こやまあきゆき at 21:23Comments(0)陶芸家

2012年01月06日

幻の人間国宝

日本に3人の幻の人間国宝がいる。

何故彼らが幻の人間国宝と呼ばれているのか?

日本には、人間国宝に選定されない優秀な陶芸家は、山ほどいる。

しかし、単に作家や作品の評価だけでなく、歴史が3人を幻にした。

3人の名は、鈴木清 河井寛次郎 加藤唐九郎
3人には、全く異なった伝説がある。

鈴木清 京都五条坂 清水寺の門前に工房があった。清水六兵衛他 多くの陶芸家とは姻戚関係にある。父初代鈴木清湖は、京都で初めて磁器人形を作り、パリ博覧会で銀牌を受賞。泉涌寺の800坪の竹林を購入。登り窯を開窯した。清は、若かりし頃楠部弥一らと赤土社を結成。また、彫刻家としても活躍。日本近代陶芸の祖 富本憲吉が開いた4つの美術団体で唯一、行動を友にした盟友。晩年全盛期の富本の工房は、鈴木家の敷地内の清の並び。鈴木家は、後の人間国宝達の社交場でもあり、ロックフェラー他海外からも多くの方々来訪した。走泥社の名付け親中島清も日吉ヶ丘高校の陶芸指導の通り道、いつも立ち寄っていた。人間国宝制度制定の様々な規定は、技官であった小山が富本からもらったアドバイスが様々な形で取り入れられている。アドバイスをした富本や鈴木は当初から自分達が受賞する事は考えていない。ただ、おおくの方に集まっていてただき、日本各地の優れた工芸家の作品を集める為に、2回選抜展が開催された。そして、人間国宝制度を高く評価されるものにするためにも、固辞していた富本に最初の人間国宝が与えられたら。染色家稲垣と鈴木は、晩年まで交遊を深めたが、富本より早く病床に。しかし、富本がぬたりの支えになった。富本の訃報を知って、二人は相次いで日をおかず他界した。来世でもまた3人、熱く語り合っているだろう。2回の選抜展の核メンバーでたった一人人間国宝にならなかったのが鈴木清である。富本らのアドバイスで、特定地域に人間国宝が固まらなァように、一芸で一地域一人と決められている。したがって、分業化が足り前だった時代、例えば色絵磁器の最高峰の柿右衛門は、個人ではなく窯として認定されている。富本の晩年全盛期の陶箱は、パリ博覧会で銀牌を受賞した鈴木家の高度な磁器技術が使われている。実際文化財になった陶箱は、50個制作され立派に完成した2つだけに色絵されたもので、もちろん鈴木家の登り窯で焼かれた。富本憲吉鈴木清の相次ぐ他界の後、富本の工房は再び現鈴木家当主爽司が受け継ぎ、その一角で修修業した弟卓司は、御室に工房を構え、色絵磁器作家として父の後、日本工芸会の作家として活躍。また、富本が残した絵の具や道具は、富本の公私の助手を務めた京都芸術大学名誉享受小山喜平に遺族から受け継がれた。
同じ技術で一地域に人間国宝は、一人。

河井寛次郎 誰もが知る民芸を代表する作家。私が大好き作家である。試験場で研究した釉薬の指導。清水六兵衛家との関係から、現在の地に残る登り窯 自宅で独自の仏教の教えと感性 釉薬の巧みさ その一方で最後まで公募展などで賞などを受けるのを固辞した。その独自の哲学は、沢山掛け軸などに残されている。
中島清と五条坂二年坂の井上家の家を借りていた小山喜平は、河井寛次郎の時代に、この窯で作品を焼いてもらっていた。大学時代の小川森野らが、当時の美大の学生達の世話をしていたからだそだ。

加藤唐九郎 いうまでもなく。文化財に認定された壺が、実在の作家の作品だった事件の作者。野人的風貌とは裏腹に、チェックのブレザー パソコンもつかい、大陶芸辞典を編纂 現在は、淡交社から出版されている。上記の鈴木家などは、4人も初版本で書かれており、絵師の家柄だったことがわかる。  

Posted by こやまあきゆき at 22:58Comments(0)陶芸家

2007年10月15日

「歴史地図本 知ってたずねる 京都」

大和書房から出ているこの本は、相当に京都の散策を倍増させてくれる。
京都の謎が、理解しやすい!  

Posted by こやまあきゆき at 03:29Comments(0)陶芸家

2007年05月23日

煎茶器の名門「井上春峰」

井上さんと出会ったのは、私が京都府陶磁器協同組合青年部(通称「五条青年会」に入っていたころ。同会の先輩でもあり、「日吉青年会」のリーダーでもあった井上さんとは、「京焼・清水焼連絡協議会」の会合で気さくにお話させていただくようになり、私と訓練校の専攻科まで2年間同期だった京谷君(現在は辻美香さんと結婚されて、岩倉の「晋六工房」におられる)が、しばらく修行していた関係で、遊びに行く機会も多く、以後井上さんとも親しくなり、今日も可愛がっていただいている。
東山七条下がった、今熊野のJR線の南側の坂を東にまっすぐ上がっていくと自然に導かれる。
煎茶の名器が並んでいると同時に、煎茶に使う様々な道具も並んでいる。
直接見学も可能なので、ぜひ一度足を運んでみては?
事前にご都合を聞いてからにしてください。  続きを読む

Posted by こやまあきゆき at 01:12Comments(0)陶芸家

2007年05月14日

陶祖「板谷波山」の名作が住友泉屋博古館で!

板谷波山。日本陶芸界で陶祖と呼ばれる巨匠中の巨匠。
実は、我が直径の日本近代陶芸の祖と呼ばれる冨本憲吉を、まだ若かりし頃に三越で開かれた日本の巨匠10人展に選抜したのが、当時の日本の陶芸界のカリスマ陶芸家の板谷波山であった。
まだ冨本が建築家として、東京の美術学校でデザインを教えたりしていた頃で、陶芸界では、決してプロとしての評価を得ていない時代。日本を代表する長老格の9人と一緒に冨本憲吉を選んだのが板谷であった。そのために三越や他の作家が大反対で、まだ若造の富本を同格で出品することに不平続出だった。そのとき板谷は、確信を持って将来の日本陶芸を動かす人物として富本を選抜した。
他の作家にとっても別格の板谷の強い意志には誰も反対できず、しぶしぶ冨本を受け入れた。
出品に当たって当時の三越の美術部長が、富本の自宅を訪問し、事の顛末と三越もまだそこまでの評価をしていないが、板谷先生の顔に免じてメンバーに加えたので、板谷先生に感謝するようにといった趣旨を富本に伝えた。冨本はそれを聞いて「評価されていない三越に出品するのは、甚だ不愉快なれど、板谷先生の御気持ちに感謝して今回だけは出品するが、以後三越とのお取引をお断りします。と名言した。やがて冨本が日本陶芸界の重鎮として、芸術院会員・人間国宝・文化勲章・京都芸大学長などを歴任され、三越は再三出品依頼に足を運んだが、最後まで三越拒否を続けられた。
名品が並んでいる。ようくご覧下さい。
  

Posted by こやまあきゆき at 00:44Comments(0)陶芸家

2007年04月16日

京都市工業試験場でみるテストピース

京都リサーチパークには、工業試験場内に、ここで実験したデーターを見学可能。
特に、釉薬のデーターは参考しなる。
たとえば、コバルトは0.3%添加しても紺色。
ウエジーウッドの紺色は粘土にコバルトは少し入れている。
資料は、職員に聞いてから閲覧できる。  

Posted by こやまあきゆき at 23:46Comments(0)陶芸家

2007年04月13日

ついに始まりました。京都の謎解きが。

この「知恵の都京都人の遺伝子」あなたは、いつごろ終わるかわかりますか?
ヒントは、月2章、プロローグとエピローグを別として書かれます。
4月12日に始まりました。  

Posted by こやまあきゆき at 00:57Comments(0)陶芸家

2007年03月18日

陶の芸術家3 近藤高弘

私が、京都府の陶工訓練校や京都市の工業試験場で3年間陶磁器の基礎を学び、作家活動を始めた頃、試験場の先輩でもある近藤高弘さんが、「チェラミスタ」という美術団体の枠を超えた、同世代で、京都で陶磁器の基礎を学んだ全国の若手陶芸家の新しい美術団体を設立するので参加しないか?と声をかけていただいた。まだ作家としては駆け出しの時で、五条地区の青年部の先輩とグループ展に出品する程度なので、1年参加を見合わせた。結局第6回の京都市美術館での展覧会まで、私も4回出品し、大丸などでの企画展にもいっしょに出品するのだが、彼の青をテーマにした作品には、かれのセンスの良さが様々な形で表現されているし、何よりも世界を舞台に活動し、常に新しい活動の場を切り開いていくリーダーシップや行動力は、さすが京都の陶芸会の名門。
実は。もう一人共通の仲間の山田晶と3人は、祖父の代(近藤悠三・鈴木清・山田喆)父の代(近藤潤・山田光・小山喜平)と3代に渡って各世代で同じ団体や美術展に出品している。偶然にも「チェラミスタで顔を合わせた訳だ。私が同世代の作家で最も信頼し尊敬し個人的にも作品にとても魅力を感じるNo.1作家だ。http://www.kondo-kyoto.com/taka/  

Posted by こやまあきゆき at 00:27Comments(0)陶芸家

2007年03月13日

陶の芸術家2 木村展之

美しい青磁や月白の器を見ると、木村展之の顔が浮かんでくる。若かりし頃京都の祇園八源で器の研究会を6人でスタートさせた時、私は自分の未熟を省みずに、渋い灰釉と造形センスのある浅田弘道・ロクロがうまく立体造形でも才能を発揮していた加古勝巳・釉薬の専門家で工業試験場の講師、特に鉄釉・天目でフランスのパリでも個展を開いていた木村隆・クラフト系のオシャレな天空をイメージする器の大先輩岡田保博・そして釉薬で実に美しい月白などを自由に使いこなす木村展之に参加していただき、様々な器展を展開した。今では想い出のひとコマだが。
 日本に三種の神器があるように、中国の皇帝にとっては玉で作られた3種の神器があった、ところが宋に金が進入し北半分を支配したとき南宋は、かろうじて独立を維持したが、『玉』をうしなってしまった。『玉』はもともとクンルン山脈の北側のホータンで産出される。中国歴代王は宝物としていた。北宋は金に奪われ、産出地との交易も絶たれ、玉に変わる景徳鎮で磁器による宝物を作らせた。簡単に青や緑に光る青磁とかではなく玉の輝きのある磁器。木村展之の作品に魅せられるのは、そのしっとりして高貴な結晶ゆえであろうか。  

Posted by こやまあきゆき at 23:51Comments(0)陶芸家

2007年03月03日

陶の芸術家1 加古勝巳

加古勝巳と出会ったのは、訓練校の時だった。嵯峨美の出身で、更にしっかりとした技術を身につけるべく訓練校に来ていたのだが、専攻科にいた私にとっては、一応後輩になるのだが、キャリアも技術もセンスのはるかにすごい才能の持ち主であった。嵯峨美出身のせいか嵯峨御流に彼の支援者がいたようだが、私自身大ファンになる魅力的作品と実にやさしさのある美男子の好青年で、年上の私をいつも立ててくれて、いつも恐縮していた。様々な公募展に無所属で出品しては、入選・入賞の連続。そんなある日、無所属で無謀にも『日展』に出品して予想通り落選した私が、懲りずにもう一度だけ挑戦して、公募展は最後にすると息巻いていた私に、「いっしょにお付き合いしましょう」と彼の車で作品を運んでくれて、彼も急遽いっしょに出品してくれた。「結果が出たらきっぱり2人で飲み明かしましょう。」彼自身この挑戦がいかに無謀な挑戦かをよく理解していたし、落選経験のない彼が私の無謀な挑戦に、自らの経歴にも汚点となる可能性の方が高いのに、せっかくの大作を出品してくれて、私は良き友を持った事の方に感謝した。私が公募展より自分らしい道を歩む決心をしたのは彼のお陰だ。ところが予想に反して「入選」の通知が来た。お祝いの電話が次々かかってきた。喜んだのもつかの間、その日夜遅くまで待ったが、加古は来なかった。「あいつダメだったのか」彼のことを思うと何一つ喜べなかった。翌日の昼過ぎにようやく彼はやってきた。やはり顔は曇っていた。お互いに黙ってしばらく肩をタタキあって、入選だけが目的じゃあない。それを目標に作品作りに全力で取り組んだ事が大事なんだと、お互いに励ましあったが、彼を巻き込んだ事を思うと「申し訳ない」と頭を下げた。そして「まさか入選できるとは思ってなかった。」と締めくくった。
突然、「入選したんですか?心配してたのに!」彼はよかったよかった。と、私の両手を握ってぴょンぴょン跳ねだした。「よかったよかった」しばらく彼はおおはしゃぎした後、「実は、ボクも入選したんです。てっきりダメだったのかと思って、喜べなかったのでと」それから2人でおおはしゃぎをした。
後日初入選の東京のパーティー会場で「第20回」の記念時計を、2人共もらった。無所属なので、相部屋のホテルに戻って、2人で祝賀会を開いた。
京都の泉涌寺の出身。http://www.h3.dion.ne.jp/~k-katsu/  

Posted by こやまあきゆき at 00:46Comments(0)陶芸家

2007年02月18日

人間国宝 清水卯一先生の想い出

清水卯一先生のご自宅はご存知五条坂の東大路よりやや西の北側にある。先生が土を求め、薪で焼く窯を求め滋賀県の蓬莱に移られて、この地の自然の材料を駆使して取り組まれたのは有名がだ、石黒先生・木村盛和先生らとの交友。鉄釉の研究。天然の灰釉のダイナミックな作風。何よりも叔父鈴木卓司・友人で先生の弟子の猪飼祐一を通して聞いていた先生像と、実際お会いしてお話をお伺いするようになって私自身、土・窯、焼き物の持つ原点をこれほど直接的に感じさせてくださった方は珍しい。私自身、陶芸の世界に入る最初の興味が鉄釉の研究からだったし、先生と発表の場が違ったが、「日展」初入選作品の『回想』は、松の木の灰を使った釉によるものだった。天然灰や鉄釉におもしろい物が出来ればできるほど、造形を複雑にするよりシンプルイズベスト。しかし、肌に素材の荒々しさが残った方が、おもしろい変化を生み出す事など経験していく内に、先生の作品の魅力が見えてくるようでわくわくしたのを覚えてる。もっとたくさんの作品を残していただきたかった。  

Posted by こやまあきゆき at 00:07Comments(0)陶芸家

2007年01月30日

陶芸家 鈴木清の仕事

型が専門の家に生まれ、陶箱・花器などに、鉄や呉須などで絵付け。又彫刻家だった為、母の少女時代の磁器の人形もある。陶箱は、灰皿などでも有名。「赤土社」結成の仲間。鹿ケ谷山荘のオーナー岡田社長の若い頃からの愛用の湯飲みが祖父のであった。  

Posted by こやまあきゆき at 01:21Comments(1)陶芸家

2007年01月22日

人間国宝 近藤悠三先生の想い出

近藤悠三先生は京都芸大の学長。人間国宝。染付けの悠三。で有名だが、私の明確な記憶は、想い出というより、1枚の写真に始まる。それは、父で後に京都芸術大学名誉教授にもなる父小山喜平が、京都美大の時代、染色家の中井貞次先生と中近東の調査から帰ってきた時、今の御池あたりか、父を迎えに行った中に、近藤先生と私がいっしょに写っている。写真では、ただただ私は嬉しそうに写っているが、実は、真っ黒に日焼けして、髭面の父をみて私は、この人がお父さん?と半信半疑になるほど、戸惑っていた。ただただよく見知った父の友人でもある美大の先生方や、集まった多くの出迎えの人々の歓声の中、父がバスから降りて来た。そのことがただただ嬉しく、はしゃいでいた。そんな中、一人第三の男のような格好で、厳しい目をしておられる近藤先生が印象に残った。富本憲吉先生が、ロンドンから博覧会の調査の助手でエジプトからインドを調査され、その弟子の父がインドから中近東(トルコ・イラン)更にギリシャまで調査。後に、近藤先生と2人で中近東へ。更に京大の吉田光邦先生と第5次京大西アジア調査隊隊員として研究を続ける事になる。不思議と近藤先生の時代に様々な変化に出会っている。先生の長男、近藤豊さんは父の同僚。次男の近藤潤先生も映画の世界におられた頃から家に遊びに来られていた。私が、その息子さんの近藤高弘君とチェラミスタ運動で行動を共にするのも不思議なご縁である。  

Posted by こやまあきゆき at 00:12Comments(0)陶芸家

2007年01月21日

恩師 谷口知巳先生

訓練校成形科で指導を受けた谷口先生は、実に温厚な紳士だった。陶磁器の知識の質問をすると系統的に説明してくださった。私と縁続きだった元校長の谷口良三先生も訪ねてこられた時、いろいろお話してくださった。同じ谷口先生で、私にはすばらしい恩師だが、迫力のあるエネルギッシュな良三先生は長いまつげに大きな目で、力強く話されていた。知巳先生は淡々といつもやさしい微笑みを浮かべながらはたしてくださった。27歳で料理界から訓練校に入った私は、男の最年長だったが、みなさん親切に指導してくださった。同期に岩倉の辻先生のお嬢さんの美香さん。辻さんと結婚した京谷くん。藤平先生とこにいた西岡くん。楽焼の佐々木くん。・・・1年後輩に故三浦直人君。〈本当に残念)浅見武君・浅田浩道君・加古勝己君・岡田夫人の八重さん・奥山栄さん竹野さん・・・この学年は伝統を受け継ぐ人が本当に多い。  

Posted by こやまあきゆき at 01:33Comments(0)陶芸家

2007年01月08日

清水六兵衛

京焼きの作家の名門中の名門。現在の当主は、8代目柾博さん。若かりし頃、大丸椀展でご一緒し、その頃からの交友ですが、基本的に縁続き。遠い親戚です。
清水家は、今の『日展』の母体の『文展』に第四部工芸が出来た頃から、5代が審査員など京都の中核的作家として、芸術院会員んもなられました。絵画的表現とダイナミックな作風の6代目は、文字通り「陶芸家クラブ」のリーダーとして、更にライバルだった楠部弥一さんと、「新工芸作家協会」を結成され、京都に新しい風をおこされました。彫刻家清水九兵衛としても有名な7代目は、彫刻家として多くの鉄の赤い立体作品を美術館前他に残され昨年残念ながら他界されました。京都芸大教授としても活躍されました。現8代目は、早稲田で建築を学ばれ、精華大で指導にもあたっておられます。
正確に成形しカットすることから、窯の中で自然な曲線に変化する。実に精巧なさくひんです。集合作品が圧巻です。私の実に大好きな陶芸家です。  

Posted by こやまあきゆき at 02:11Comments(0)陶芸家

2006年11月27日

追悼 嵯峨美の佐藤 巧

今日、友人の陶芸仲間の佐藤巧が、他界した事をしった。
この前の「マロニエ」での個展で会ったばかりだが、元気がなかったのが気になっていたが、以前心配した時期もあったので、むしろ元気でがんばってる事を喜んでいた矢先の訃報。
佐藤巧との出会いは、近藤高弘・長谷川伸弘が設立した陶芸集団「チェラミスタ」に参加した時が最初だった。役員会議で同席し、偶然彼のお父さんが、美術写真家でも有名な、佐藤旭先生で、私の父で京都芸大の教授をしていた小山喜平と親交深く。私も子供のころからお会いし、知っていた。その息子ということと、アーティスティックでカラフルな作品と、黒皮のジャケット、メタリックなケース、手にはドクロの指輪。毎年アメリカの国際陶芸家会議に出席するだけに、どこか感性が日本人離れしている個性的キャラが好きだった。「国際ホテル35周年記念・日本庭園での陶芸展『浮遊群』」を私が企画した時にも参加してもらった。44歳というあまりに若すぎる生涯だが、彼の残した作品の最後が、人形のような作品群で、ようやく私の作品群に接近していただけに。残念でならない。ご冥福を心よりお祈りいたします。 小山晶之(こやまあきゆき)  

Posted by こやまあきゆき at 23:18Comments(0)陶芸家

2006年11月24日

岡田保博・八重子素敵な瑞穂町の陶芸家

以前、このブログで、女子大生が尋ねてくる瑞穂町の陶芸家岡田保博氏の事を書いた。
八重子夫人は精華大の出身。実にチャーミングな女性で、訓練校時代7人組みの仲良し女性図案科グループのリーダー的存在で、たまたま専攻科にいたので、自治会長に私がなっていたので、(年が一番老けていただけ)美術館やギャラリー見学を企画していたので、7人組とは良く展覧会に一緒に言った。見学の後、「地球屋」とか「祇園亭」で飲むのがお決まりで、そんなあるとき八重子さんの提案で、大文字パーティーの企画があり、結婚していてご主人が陶芸家の竹野さんと共に八重子さんが、彼氏として連れてきたのが、岡田さん。かっこよくって、背が高く、彫りの深いハーフのような顔。おまけにシャイで、やさしい性格。男が男に惚れる男らしさもあって、すっかり私も岡田ファンになり、その後展覧会にお願いしてずいぶん一緒に出品していただいた。若い頃は、岩倉で教室を開いておられる辻さんのお弟子さんだったそうで、偶然辻さんのお嬢さんと私が同級生。しかもご主人も同級生。京都は狭い。ところで岡田さんは現在祇園郵便局の南隣の「八源」で陶芸を、蔭山明さんと指導しておられる。是非会いに行ってみよう。  

Posted by こやまあきゆき at 22:25Comments(2)陶芸家

2006年11月03日

[万市]さんのおかげで祖父作品と再会  

「京つう」ブログのおかげで、祖父 鈴木清 作品のある場所が一つ見つかりました。ありがとうございます。ちなみに、祖父は、初代鈴木清湖の長男ですが、鈴木喜三郎(加藤唐九郎が辞典で三代の事を紹介してくれています。)・鈴木鷹三郎(初代清湖・パリ博覧会で銀牌受賞・テイファニの国際的デビューもこの博覧会だそうです。)・鈴木清(最初彫刻家として山本格二らと活動・楠部弥一らと「赤土会」を結成。富本憲吉との出会いにより、国画会工芸部展に出品(この工芸部の事務所は鈴木家の住む黒門の敷地内に置かれた。私もここの中で生まれ育った)・国展が民芸運動の発表の場にもなったが、富本と創作重視の活動に参加。文展・帝展・新文展・日展と続く富本の「新匠工芸会」(後富本・稲垣捻次郎らと日展を脱退して新匠会設立に参加。黒門事務局となる)富本と共に第一回伝統工芸選抜展(初期は公募展ではなく選抜展)に出品。富本・稲垣と日を置かずして他界)。長女陽子の夫が京都芸大名誉教授で長年「新匠工芸会」審査員や京都府作家協会理事を務めた小山喜平(私の父)。清の長男が日展現代工芸他で活躍し京焼色絵磁器作家の鈴木爽司。その弟が伝統工芸や作家協会理事の鈴木卓司。その従兄弟が日工会の鈴木健司。清の妻「はな」は、清水六兵衛・谷口良三・西村徳泉・徳二郎らとも遠戚に当たる。また小山が京都芸大(当時の美大)1期生。続いて鈴木健司・鈴木爽司も卒業生で、更に小山は、芸大のほかに京都教育大学の講師や京大西アジア調査隊も勤め。小山晶之(私)は、京焼き清水焼連絡協議会(当時6団体の青年部)元副議長で200名が参加した陶芸集団「チェラミスタ」の代表幹事の一人。京都府作家協会・民族芸術学会会員  

Posted by こやまあきゆき at 01:44Comments(2)陶芸家

2006年10月13日

鈴木卓司(叔父です)作陶展 京都高島屋で開催中

京焼きを代表する「仁清・乾山」ゆかりの地、鳴滝(衣かけの道・清滝・嵐山に別れるあたり)に、工房を構え、赤絵・色絵などで独自の世界を展開する鈴木卓司。
実は、私の叔父です。父は、富本憲吉と唯一生涯四つの美術団体で行動を共にした鈴木清、晩年の富本の工房もあった泉涌寺の通称「黒門」とも呼ばれた、鈴木家の登り窯を中心とした一角に生まれ、若かりし頃から油絵を学び「チャーチル会」にも参加。大学では哲学を専攻し、卒業後は洛南高校の教壇に立った。しかし、子供のころから親しんだ陶磁器の特に赤絵や京焼きの研究に取り組み、東京芸大教授で富本の東京美術学校時代に薫陶を受けた田村耕一に師事。伝統工芸の作家として、「赤絵の卓司と呼ばれる」近年、鉄釉など釉薬や素材の研究で高く評価され、人間国宝となった故清水卯一の指導を受けた事によって、更に幅が広がり、得意の絵画性を生かした作品は、海外でも高い評価を受けている。  続きを読む

Posted by こやまあきゆき at 00:02Comments(0)陶芸家