2006年11月13日
京焼き「粟田焼」壊滅の真相
「京焼き」の展覧会が、京都国立博物館で開催されている。是非ご覧下さい。ところで、私小山晶之(こやまあきゆき)が、京都出身・在住の陶芸家であると自己紹介すると、よく聞かれるのが、京焼きですか?清水焼ですか?と聞かれる。実は、この定義、実にあいまいなのだ。清水や勧修寺にも確かに焼き物の窯があった。しかし、京都市内では、修学院焼・御室焼・深泥焼とでも呼ぶのか、周辺の山裾にも様々な窯跡があり、特に三条蹴上の粟田焼は、茶陶の世界では、細かい貫入(かんにゅう・ひびに見える)の入ったクリーム色の陶器(半磁器に近い)が、京焼きの主役的な時期があった。明治以降の西洋技術の導入は、陶磁器の世界にも持ち込まれ、近代化の名目でガス窯・ゼーゲル(耐火度の違う2種類の粘土を半分縦割りで付けた三角柱(上部が1点になり底は三角形)を窯の中の外から見えるのぞき穴の中に耐火度の低い面をやや下に傾けて立てると、2種類の耐火度の温度差でやわらかくなった面の方に倒れてくる。この性質を利用して、いろいろな温度で倒れるもの正確につくり番号がふってある。10番が倒れ始めるのは何度。という具合に3種類位の番号が並んだゼーゲルを並べて、手前から順に倒れるようにセットすると中の温度がわかる仕組み。ゼーゲルはいい発明だが、あまりの多くの設備費などで、倒産し粟田焼は壊滅。その一部が五条の清水坂や白川沿いにならんだ。白川は新門前・古門前の道具屋街につながる。五条坂は清水寺の参道。
ようやく、安田君が、伝統復活に向けて取り組み始め、粟田焼が復活した。もちろん私も訓練校時代粟田土でロクロを引いたように、京焼き作家の中に、その伝統は開け継がれているが、粟田神社を見学すれば、いかにこだわりがあったかは一目瞭然である。
東山の黄土が粟田を生んだともいえる。
ようやく、安田君が、伝統復活に向けて取り組み始め、粟田焼が復活した。もちろん私も訓練校時代粟田土でロクロを引いたように、京焼き作家の中に、その伝統は開け継がれているが、粟田神社を見学すれば、いかにこだわりがあったかは一目瞭然である。
東山の黄土が粟田を生んだともいえる。