2007年05月14日
陶祖「板谷波山」の名作が住友泉屋博古館で!
板谷波山。日本陶芸界で陶祖と呼ばれる巨匠中の巨匠。
実は、我が直径の日本近代陶芸の祖と呼ばれる冨本憲吉を、まだ若かりし頃に三越で開かれた日本の巨匠10人展に選抜したのが、当時の日本の陶芸界のカリスマ陶芸家の板谷波山であった。
まだ冨本が建築家として、東京の美術学校でデザインを教えたりしていた頃で、陶芸界では、決してプロとしての評価を得ていない時代。日本を代表する長老格の9人と一緒に冨本憲吉を選んだのが板谷であった。そのために三越や他の作家が大反対で、まだ若造の富本を同格で出品することに不平続出だった。そのとき板谷は、確信を持って将来の日本陶芸を動かす人物として富本を選抜した。
他の作家にとっても別格の板谷の強い意志には誰も反対できず、しぶしぶ冨本を受け入れた。
出品に当たって当時の三越の美術部長が、富本の自宅を訪問し、事の顛末と三越もまだそこまでの評価をしていないが、板谷先生の顔に免じてメンバーに加えたので、板谷先生に感謝するようにといった趣旨を富本に伝えた。冨本はそれを聞いて「評価されていない三越に出品するのは、甚だ不愉快なれど、板谷先生の御気持ちに感謝して今回だけは出品するが、以後三越とのお取引をお断りします。と名言した。やがて冨本が日本陶芸界の重鎮として、芸術院会員・人間国宝・文化勲章・京都芸大学長などを歴任され、三越は再三出品依頼に足を運んだが、最後まで三越拒否を続けられた。
名品が並んでいる。ようくご覧下さい。
実は、我が直径の日本近代陶芸の祖と呼ばれる冨本憲吉を、まだ若かりし頃に三越で開かれた日本の巨匠10人展に選抜したのが、当時の日本の陶芸界のカリスマ陶芸家の板谷波山であった。
まだ冨本が建築家として、東京の美術学校でデザインを教えたりしていた頃で、陶芸界では、決してプロとしての評価を得ていない時代。日本を代表する長老格の9人と一緒に冨本憲吉を選んだのが板谷であった。そのために三越や他の作家が大反対で、まだ若造の富本を同格で出品することに不平続出だった。そのとき板谷は、確信を持って将来の日本陶芸を動かす人物として富本を選抜した。
他の作家にとっても別格の板谷の強い意志には誰も反対できず、しぶしぶ冨本を受け入れた。
出品に当たって当時の三越の美術部長が、富本の自宅を訪問し、事の顛末と三越もまだそこまでの評価をしていないが、板谷先生の顔に免じてメンバーに加えたので、板谷先生に感謝するようにといった趣旨を富本に伝えた。冨本はそれを聞いて「評価されていない三越に出品するのは、甚だ不愉快なれど、板谷先生の御気持ちに感謝して今回だけは出品するが、以後三越とのお取引をお断りします。と名言した。やがて冨本が日本陶芸界の重鎮として、芸術院会員・人間国宝・文化勲章・京都芸大学長などを歴任され、三越は再三出品依頼に足を運んだが、最後まで三越拒否を続けられた。
名品が並んでいる。ようくご覧下さい。
Posted by こやまあきゆき at 00:44│Comments(0)
│陶芸家