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プロフィール
こやまあきゆき
こやまあきゆき:陶芸家 
「円山陶芸協会」代表
「民族芸術学会」会員〔食文化)
「ふるさとテレビ顧問」(農水省外郭団体)
「NPO京都生活環境つくり21」理事
財団法人「うどんミュージアム」館長
陶芸集団チェラミスタ代表幹事
長尾谷高校・つくば開成高校元講師。(陶芸)
京都市公立小学校他で約15年間陶芸指導。
京都市工業試験場陶磁器研修科終了。
京都府陶工訓練校専攻科終了。
京都産業大学外国語学部卒業。京都生まれ。
財団法人「京都国際学生の家」OB
「京都市展」「日展」ほか200回以上の展覧会に出品。
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2007年01月30日

陶芸家 鈴木清の仕事

型が専門の家に生まれ、陶箱・花器などに、鉄や呉須などで絵付け。又彫刻家だった為、母の少女時代の磁器の人形もある。陶箱は、灰皿などでも有名。「赤土社」結成の仲間。鹿ケ谷山荘のオーナー岡田社長の若い頃からの愛用の湯飲みが祖父のであった。  

Posted by こやまあきゆき at 01:21Comments(1)陶芸家

2007年01月29日

京都陶芸家鈴木家の系譜(加藤唐九郎らによる)

系図
鈴木藤三郎ー鈴木喜三郎ー鈴木鷹次郎(鷹三郎=初代鈴木清湖)-鈴木清(2代目鈴木清湖)-鈴木爽司(現鈴木家当主)
二ノ宮桃頓(通称京助):瀬戸出身。喜三郎の妻「きん」の弟。尾張の陶画工。山本梅逸門下。
鈴木治(3代目鈴木清湖・・・鈴木清の弟)ー鈴木健司(長男)・鈴木孝之(治次男)
鈴木卓司(鈴木清の次男)
小山陽子(鈴木清長女・小山喜平夫人)-小山晶之
・鈴木藤三郎:美濃焼の出。瀬戸で絵付師となる。
・鈴木喜三郎:美濃焼の出。(嘉永3年生まれ)1898年〈明治11年)京都五条坂に移り絵付師として活躍。
・鈴木鷹次郎(通称鷹三郎・・父・祖父ゆかりの三郎を好んで通称とした。)明治12年京都生まれ。明治27年、瀬戸の井上良斎の工房で磁器成形法を修行。(井上家は、東京に移り、鷹三郎は1906年〈明治39年)京都で初めて、磁器による人形・置物を制作)鈴木清湖襲名。パリ博覧会で銀賞(牌)受賞。大正7年。瓦屋「柿本」が所有する泉涌寺の竹林約800坪を譲り受けて登り窯開窯。大正13年に前面移転。(五条の清水門前の工房等は妹の中條家が受け継ぐ。)15年2月没。泉涌寺の「黒門」と称された鈴木家の敷地には、瀬戸方面から多くの陶工が、移り職人として働いた。最盛期には30名程になったという。
・鈴木清(2代目清湖):父の他界によって2代目となるが、彫刻家として、山本格二氏と活動。また楠部弥一・浅見隆三・叶光男ら6人が「赤土社」を結成。革新的陶芸運動として京都で注目される。富本憲吉との交友から、国画会工芸部設立に出品。同事務局が、鈴木家の「黒門」に置かれる。富本と行動を共にし、「文展」で最高賞の文部大臣賞受賞。帝展・新文展・日展を経て、富本の結成した「新匠工芸会」結成に参加。事務局が、「黒門」に開かれる。第1回・第2回の選抜「伝統工芸展」に富本・稲垣と共に出品。以後「日本工芸会」正会員として陶芸家としての活動を行う。あくまでも作家「鈴木清」として活動した為に、「鈴木清湖」は、磁器型物を受け継ぐ家業として、成形を担当した弟鈴木治へと受け継がれる。富本憲吉自身、乾山を受け継いでいるが、乾山の名は使わなかった。
・鈴木爽司:鈴木家の伝統である磁器型物の技法と絵付師としての花鳥画の伝統を受け継ぎ、京都美大と黒門で富本憲吉の薫陶を受け更に「日展」で六代清水六兵衛の薫陶を受ける。京都では数少ない「現代工芸作家協会」の作家として活躍。その後「日本工芸会展」でも入選。「京焼き・花鳥画の作家」としてその作品は、様々な機関でコレクションに加えられている。
・鈴木卓司:富本憲吉・父清亡き後、田村耕一(東京芸大教授・人間国宝)に師事。乾山ゆかりの鳴滝に工房を構え、赤絵の卓司と呼ばれる。若かりしころより「チャーチル会」の会員として、洋画に親しむ。日本工芸会正会員。京都では、故清水卯一氏の薫陶も受けた。京都府作家協会理事。
・鈴木健司:「日展」会員。「日工会」評議員。六代・七代「清水六兵衛」氏の薫陶を受ける。
・小山喜平:京都芸術大学名誉教授。「新匠工芸会」長老として、京都府作家協会理事、「京都市展」他の審査員を長く務める。京都教育大学・嵯峨芸術短期大学・芦屋滴水などで陶芸指導。京大西アジア調査隊元隊員。
・小山晶之:「チェラミスタ」幹事。元「京焼き清水焼き連絡協議会」副議長。「京展」「日展」「現代工芸展」他180回近い展覧会に出品。「円山流創作陶芸」3000人を超える人に体験指導。  

Posted by こやまあきゆき at 00:41Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月28日

富本憲吉 人間国宝と「伝統工芸・日本工芸会」

富本が常に創作重視の美術工芸運動に取り組むなかで、衰退する地方の伝統工芸の惨状に憂慮していたのが、国の技官でもあり、石黒宗麿と鉄釉などの研究など古陶磁器研究でも知られていた小山冨士夫である。小山冨士夫は、富本の工房に通い、伝統文化・技術等の保護育成の手段として優れた作家を国が認定して保護する人間国宝制度の制定や伝統工芸展の開催の助言を求めている。工房で富本先生に質問し、その対策を理詰めで順に説明する富本と小山冨士夫のやりとりを、父小山喜平や祖父鈴木清はいつも聞いていた。その時の助言が今日の制度にたくさん生かされている。たとえば、日展が東京と京都の美術学校出身者が芸術院の中心に多くいるのに対して、地方出身者は、作品を見てもらうために上京する、2元を頂点とするピラミッド的構造に当時陥りやすかった点を指摘して、人間国宝は、全国の技芸別に一人選出されているので、保護する価値を認められた様々な分野から、その地方に1人選出される。また選出には、段階的複数の選抜を経なければならず、美学の研究者など、作家以外の専門家を審査員に加えて、特定の家系に有利になるような事のない様に配慮されている。さらに、一人の仕事か団体仕事かを明確にしているので、柿右衛門窯のように、当主個人でなく、窯の仕事に与えられている場合もある。これらの助言をたくさんしていた富本が、人間国宝になるのは、自作自演になる。当然本人は、自分が選出される事は、徹底的に辞退している。しかし、小山の最後のくどき文句は、人間国宝は新しい制度で、まだ世間的にまったく認知されていない。芸術院会員のように、最高の人物がもらうタイトルと評価されるには、まず誰がもらうかで決まってしまう。それには、元芸術院会員でもあった富本憲吉しかいない。つまり芸術院を脱退した富本がもらう位格のある賞であることで、「人間国宝」に選出される人物が、いかに高いレベルかの基準になる。
結局小山の再三の要望で受理することになる。無所属でも、当時日本で最も高く作品が売れるダントツの人気作家に新しいタイトルがついた。それは、「文化勲章」のステップだったのかもしれない。  

Posted by こやまあきゆき at 01:07Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉と「新匠工芸会」

「新匠工芸会」は、富本憲吉が中心となって、「日展」の作家や若手出品者の勉強会から始まった。前衛陶芸の先駆者「走泥社」の八木一男・鈴木治・山田光も「女流陶芸」のリーダー坪井明日香も若かりし頃は参加している。「工芸作家だけによる創作性を重視した美術団体」として、戦後、富本の芸術院退会後発足。鈴木清・近藤悠三・型染めの第1人者稲垣稔次郎らも行動をともにし、鈴木清の泉涌寺の実家は、国画会工芸部発足時に続いて事務局となった。仲間の中でローケツ染めの小合友之助や東京時代の教え子3羽ガラスの一人松風栄一ら、「日展」に残ったものも多い。また国展時代の同志で文展などに出品せずに「新匠会」で再合流したものもいた。美術展となった頃には、八木一男らは、独自の運動を展開。東京3羽がらすの藤本能道はモダンアート志向へ。様々な工芸運動が生まれてくる。この頃まだ伝統工芸が存在してないので、高島屋は、「新匠会」の大舞台だった。  

Posted by こやまあきゆき at 00:36Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉と「日展」

今日「日展」と呼ばれる組織は、現在も日本最大の美術団体で、現在第一部「日本画」第二部「洋画」第三部「彫刻」第四部「工芸」第五部「書」となっており、「工芸」には、陶芸・染色・織・木工・金工・ガラス・皮など多彩な創作工芸の世界の作家が活躍している。その中心的役割をはたしているのが、「芸術院会員」と呼ばれる人々。各分野の最高峰の作家と日展で評価された先生方である。膨大な出品者は、まず入選を目標に作品を出品。入選者のなかから、更に特選といった最高の賞を複数回いただくと、正会員として出品に無鑑査。やがて審査員になる。更に、芸術院賞やがて芸術院会員に選出されれば、会社なら取締役の最高幹部。しかし、最初に第四部工芸が設立されたのは、文部省の「文展」。つまり官展だった。その審査員に最初に抜擢された一人が、富本憲吉。当然、今でいう芸術院会員にも選出される。最初から審査される方でなく、審査する方だった。「文展」は、「帝展」・「新文展」「日展」への道を進むが、この「文展」の文部大臣賞を受賞したのが、やはり富本とともに「文展」に出品した祖父鈴木清。これは、審査される側の最高賞を受賞した事になる。富本自身は、このような賞の受賞は、建築家としてのコンペを別にすると、人生最後の「文化勲章」しかもらってないのではないか。常に審査する側のトップに君臨しつづけたから。  

Posted by こやまあきゆき at 00:21Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月28日

富本憲吉と「国画会」

富本憲吉の出品のあと、工芸部が創設される事で、それまで陶工として活動していたどちらかといえば、美術学校などでも勉強していた窯元の息子が多かったが、自らの創作的作品(といっても伝統を踏まえたものに、ほぼ限定されていた時代だったが、意欲的な陶工のなかに、出品する人たちが出てきた。私の祖父鈴木清もその一人。山田喆らもそうなら、民芸運動のリーダーとなる河井寛次郎・濱田庄司らもその一人。やがて創作思考の富本を中心とする鈴木清らと民芸派の河井・浜田らは別行動を取る事になり、民芸派は民芸館に活動の舞台を一時移すが、結局国画会に復帰して、創作の第1部と民芸の第2部の2部制になり、やがて富本の次の舞台「文展」への移行のなかで、国展は、民芸派のホームグランドになる。  

Posted by こやまあきゆき at 00:03Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月27日

日本近代陶芸の祖と富本憲吉先生が呼ばれる理由

富本先生を、日本近代陶芸の祖と呼んだのは、美学の研究者達であるが、そう呼ばれてしかるべし訳がたくさんある。
1、美術館などでの美術展の対象が、日本画・洋画・彫刻であった時代、陶芸や染色・織・金工などの工芸は、職人の世界の匠の世界であり、創作的要素が多分に含まれていても、名工と称されても、芸術家と呼ばれる事はなかった。元々建築家で、東京の美術学校などの教授として、デザイン指導していた富本にとって、名建築を支えるグローバルな創作物の中に、絵画・彫刻の要素とともに、工芸の持つ要素は、同等であり、優れた仕事をするには、技術と創作性や独創性も含んだ、優秀な建築家・彫刻家・画家・工芸家時には造園家とか様々な人材が必要になる。ロンドン留学中に様々な欧州の美術運動・建築運動・工芸運動に触れ、工芸家が自分の展覧会を開いたり、専用ショールームを持っていたり、多様な価値観を持った作家が、時にクロスオーバーで交流し、刺激しあって活動している姿をみて、日本の徒弟制度のなかで、知識や技術が、一子相伝などで非公開になっている現状を憂慮していた。バーナードリーチとの出会いもさることながら、洋画の美術団体「国画会」に富本憲吉の部屋が設けられ、その作品が美術展の一角を占めたことは、画期的だった。  

Posted by こやまあきゆき at 23:50Comments(0)富本憲吉先生

2007年01月27日

陶芸家小山喜平の横顔

生まれは愛知県。建具師の父小山源一の修行の関係で愛知県で生まれる。小山家は代々播州龍野藩で小姓を務めていた。下野小山の分家。祖父は、大阪で住友の銅の精錬に携わり、大阪では資産家として料理屋なども所有した。源一は家具商として「小山商店」を開き、難波・玉出など3店にまで拡張。喜平は、難波の家で育ち、空襲で自宅・本店焼失後は、玉出で育つ。住吉高校を経て家具と関連のある漆芸の勉強の為に、京都の美術学校に入学2年間学ぶ。この頃「関西美術院」で黒田重太郎らに絵画を学ぶ。新生大学制度導入により、改めて「京都美術大学の1期生」として工芸科に入り、富本憲吉先生との出会いから、陶芸科1期生として富本・近藤・岩淵各先生の指導を受ける。専攻科終了後初めての助手として美大の教員となり、富本先生の公私の助手を務める、平行して留学生の指導・京都教育大学・芦屋の滴水などの指導も行う。京都芸大・京都大学などの様々なシルクロードの工芸調査の隊長・隊員を務める。長く京都府作家協会理事を務め、京都市の文化功労者。ペルシャ青釉は有名。  

Posted by こやまあきゆき at 17:19Comments(0)陶芸家 京芸大名誉教授 小山喜平

2007年01月27日

華道との出会い 5 「フラワーアレンジメント」

日本の華道で、ご縁の有る流派は他にもいくつかある。家元や高弟の方々といろいろお会いしている、たとえば、叔母の一人が「山村御流」の高弟だそうで、奈良や京都での華展で皆さんとお会いしている。しかし、私には、3000人以上の陶芸の教え子がいる。中には、フラワーアレンジメントの先生もたくさんいる。その一人、今井先生の一門も私の教え子が多い為に、華展に花器の賛助出品を頼まれた事も。展覧会自身がアートだった。  

Posted by こやまあきゆき at 00:54Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月27日

華道との出会い 4 「未生流」

未生流には、いくつかの流派があるが、父は、京都のマッショウと学生時代からの友人と呼んでいたが、母が未生流。しかもかなり高弟といわれている母の先生も母の身内である。華展には、母は、いつも父の作品を使っていた。残念ながら子供の私の出番はなかった。実家には、いつも母の生けたお花が飾ってある。花器は小山喜平作。夫唱婦随である。  

Posted by こやまあきゆき at 00:47Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月27日

華道との出会い 3 「嵯峨御流」

嵯峨御流は、大覚寺に本拠を持つ流派で、嵯峨美術短大出身の家内も嵯峨御流。なによりも、この流派と関係の深い加古勝巳は、初期のころ私と様々な活動をともにしていた関係で、嵯峨御流展への賛助出品の話も彼が持ってきた。大覚寺には、一般の参拝としてとは別に、華道の関係で何度か出入りしている。流派によって華道の生け方も違うので、自分の作品として、いかに流派の方向性の中で、生かしてもらえるかなどを、シュミレーションしょいながら、もう一つの自分のテーマとしても作品化していかなければならない。どちらかといえば自然の姿をシュミレーションした作品を提供した。  

Posted by こやまあきゆき at 00:42Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月27日

華道との出会い 2 「草月」

草月流というと私には、忘れられない想い出が2つある。その1が、故勅使河原宏先生が、映画監督として、私の名付け親で、父小山喜平の師でもある「富本憲吉先生」をモデルにした映画を製作される予定だった。京都美術大学教授になられた京都時代の先生の専用工房が、私が生まれた母方の祖父「鈴木清」の工房の奥に開かれ、父小山喜平の工房も同じ敷地にあったので、(祖父や私の家も同じ敷地内にあった。)映画化の際、この鈴木家の登り窯を中心とした、通称「黒門」と呼ばれた一角を、越前あたりに再現して撮影したいとの申し入れもあり、撮影用の先生の作品は、助手だった父が、すでに数点制作するところまで行っていた。もちろん勅使河原宏先生は、我が家にもスタッフとともに出入りされていた。主役も、ツリバカの社長がやる予定だっただけに、「利休」に続く作品になっていれば、「富本憲吉」の知られざる素顔が知られて、より大きな意味があっただけに、残念。先生のご冥福をお祈りします。もう一つの想い出は、しまだいさんで開いた、草月流若手の陶芸研修で、私が指導した事。約60人が、各自自由にデザインした創作花器を、短時間に全員が作った。蔭山明さんが手伝ってくれて、2人で走り回って指導した。短時間に、あんなに多彩な作品を、交代で作っていただいたのは、初めて。デザインも多彩だった。  

Posted by こやまあきゆき at 00:33Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月27日

華道との出会い 1 「池坊」

私が陶芸を訓練校・工業試験場で3年間プロとしての訓練と研究に取り組んでいたとき、最初に陶芸仲間として私を受け入れてくれたのは、京都府陶磁器組合青年部の先輩達、つまり五条青年会の皆さんだった。当時は、高木岩華の高木さんが会長。堀尾さん、井上さん、日吉の井上さんらともこの時出会う。同じ頃に若手陶芸家200人位が集まって陶芸集団「チェラミスタ」が結成される。発起人は、近藤高弘・長谷川伸弘。名付け親はイタリアファエンツァ帰りの西貞幸。イタリア語で陶芸家を意味する。設立の時に、近藤君が私にも声をかけてくれたが、28歳で本格的な訓練のために訓練校に入った為、2年目も磁器を学ぶ為に、専攻科に進んだ私は、訓練校の規則もあり出品を見合わせた。翌年の第3回展が、池坊由紀さんの尽力と、保子先生のご協力で「チェラミスタ華の器展」に池坊の皆さんが、花を生けてくださった。ただし限定20.つまり20名が、自分の好きな花器を選んで生けるサバイバル。そして、光栄にも私の「母なる大地」という作品に生けてくださった。おまけに後日生けた方の花嫁道具の一つにと、お買い上げくださった。初めて自分の作品が、華道の花器として評価された瞬間だった。後日、子供関係のご縁や仕事場のご縁で保子先生や由紀さんと何度もお会いする機会を持つようになったが、子供の頃にもチャーチル会のご縁でお会いしているので、不思議なご縁という気がする。ところで、現代的な方向の池坊でよく使われるオシャレな花器の作家の一人が、清水焼団地の奥田さんで、お嬢さんの榮さんは、訓練校の1年後輩。つまりいっしょに勉強した仲だ。山科にも遊びに行った事もある。池坊は、日本華道の最も伝統有る流派として、今日全国・世界にも門弟がおられる。私は、華道に使われる様々な材料を、他のディスプレーに応用する為に、時々池坊のモダンナエレヴェーターに小汚いジャンパー姿で乗っているが、もう一つ。六角堂が京都のヘソで、応仁の乱などの後の荒廃した京都は、革堂と六角堂から再建された事を、忘れてはいけない。下京は、六角堂から生まれたのだ。  

Posted by こやまあきゆき at 00:13Comments(0)陶芸家 小山晶之

2007年01月24日

「バニラ」三浦浩一・小野寺丈ら4人で

京都の新しい演劇・ミュージカルなどの革新的舞台となっている 三条の「アートコンプレックス」で三浦浩一・小野寺丈・岡本あつこ・小野寺昭4人の「バニラ」が上演される。1月25日から28日までの公演。くわしくは「アートコンプレックスHPで」.
http://www.artcomplex.net/ac1928/sche_02.html
アートコンプレックスは、プロデューサーの小原さんによる新しい舞台だが、建築家の若林さんのサポートで動き始めた。「京都プロデュース協会」が設立された時、駆けつけてくださった。劇団「四季」の京都劇場が京都駅に。三条に若者も集う「アートコンプレックス」京都がおもしろくなっている。  

Posted by こやまあきゆき at 00:09Comments(0)演劇・舞台

2007年01月22日

人間国宝 近藤悠三先生の想い出

近藤悠三先生は京都芸大の学長。人間国宝。染付けの悠三。で有名だが、私の明確な記憶は、想い出というより、1枚の写真に始まる。それは、父で後に京都芸術大学名誉教授にもなる父小山喜平が、京都美大の時代、染色家の中井貞次先生と中近東の調査から帰ってきた時、今の御池あたりか、父を迎えに行った中に、近藤先生と私がいっしょに写っている。写真では、ただただ私は嬉しそうに写っているが、実は、真っ黒に日焼けして、髭面の父をみて私は、この人がお父さん?と半信半疑になるほど、戸惑っていた。ただただよく見知った父の友人でもある美大の先生方や、集まった多くの出迎えの人々の歓声の中、父がバスから降りて来た。そのことがただただ嬉しく、はしゃいでいた。そんな中、一人第三の男のような格好で、厳しい目をしておられる近藤先生が印象に残った。富本憲吉先生が、ロンドンから博覧会の調査の助手でエジプトからインドを調査され、その弟子の父がインドから中近東(トルコ・イラン)更にギリシャまで調査。後に、近藤先生と2人で中近東へ。更に京大の吉田光邦先生と第5次京大西アジア調査隊隊員として研究を続ける事になる。不思議と近藤先生の時代に様々な変化に出会っている。先生の長男、近藤豊さんは父の同僚。次男の近藤潤先生も映画の世界におられた頃から家に遊びに来られていた。私が、その息子さんの近藤高弘君とチェラミスタ運動で行動を共にするのも不思議なご縁である。  

Posted by こやまあきゆき at 00:12Comments(0)陶芸家

2007年01月21日

恩師 谷口知巳先生

訓練校成形科で指導を受けた谷口先生は、実に温厚な紳士だった。陶磁器の知識の質問をすると系統的に説明してくださった。私と縁続きだった元校長の谷口良三先生も訪ねてこられた時、いろいろお話してくださった。同じ谷口先生で、私にはすばらしい恩師だが、迫力のあるエネルギッシュな良三先生は長いまつげに大きな目で、力強く話されていた。知巳先生は淡々といつもやさしい微笑みを浮かべながらはたしてくださった。27歳で料理界から訓練校に入った私は、男の最年長だったが、みなさん親切に指導してくださった。同期に岩倉の辻先生のお嬢さんの美香さん。辻さんと結婚した京谷くん。藤平先生とこにいた西岡くん。楽焼の佐々木くん。・・・1年後輩に故三浦直人君。〈本当に残念)浅見武君・浅田浩道君・加古勝己君・岡田夫人の八重さん・奥山栄さん竹野さん・・・この学年は伝統を受け継ぐ人が本当に多い。  

Posted by こやまあきゆき at 01:33Comments(0)陶芸家

2007年01月21日

清水焼団地見学

東山トンネルを山科に抜けると大石神社方面に抜ける道は、「清水焼団地」と呼ばれる。ここは元々五条坂などに住んでいた陶芸家が、より広い工房を求めて行政との連携もあって開かれた。綺麗に区画された町並みには、工房とお店の区画があるが、地域の組合のショールームもある。若手陶芸家が独立するための共同工房もある。谷口さんや伊東慶先生・木村先生・・・池坊の花器で有名な奥山さんの工房とショールームもここにある。奥山さんのお嬢さんとは訓練校でいっしょだった。陶芸体験や夏の陶器祭りも楽しいが、静かな今の時期に工房をたずねるのもいいのでは。滑り石から今熊野に抜けられるが、この付近に友人の近藤高弘・村田先輩・本庄先生の工房もある。  

Posted by こやまあきゆき at 01:16Comments(0)京焼き

2007年01月20日

京都清水寺散策 陶芸好きのコース

京都の人気No1の清水寺散策。陶芸ファンならどう行くのがベストか。
私なら、京阪五条下車・・・五条通の北側を東大路まで陶磁器店を覘きながら散策。(壷屋いかいは伝統工芸の若手人気作家猪飼祐一さんの実家。谷口さんは、親戚に日展の谷口まさのりさん・訓練校校長の故谷口良三先生がいる〈遠縁)。現代工芸作家の浅見薫・武〈後輩)親子の実家。人間国宝故清水卯一先生の実家。茶陶の三浦竹泉氏の実家(故直人氏は後輩)。日展の藤平先生の実家の藤平陶苑などがある。藤平さんは、近所に登り窯跡がある。東山五条を南に渡り少し西に戻ると清水六兵衛窯(遠縁)。路地を下がると「河井寛次郎記念館」絶対入るべし。登り窯跡・民芸運動の資料。河井作品に触れられる。私の大好きな作家。掛け軸の「草にあらず人にあらず木にあらず」とか「仕事が仕事をしています」とかは大好きな言葉。2階のお尻ピッタシの椅子に座ってください。私とも尻り合いになります。興味の有る方は、馬町から少し西に行くと立派な赤レンガで「連鶴の折り紙教えてます。その向かいに老舗の「高木岩華」さんと工房とショールーム。陶芸教室にもなってます。馬町交差点を西に上ると京女のテニスコートの向かいが「京都府陶工高等技術専門高」事前予約で見学可能。プロになる為のロクロ師・絵付師の訓練が見学できます。五条坂に戻って京都府のショールーム見学。坂を上ると「京都市ギャラリー」見学。二股を右へ。茶碗坂を上ると「近藤悠三記念館」染付けの大家で、人間国宝。芸大学長。坂を上ると清水寺出口付近ですが、入り口から拝観。二年坂・三寧坂へ、階段の上に「嘉祥窯」森岡さんの一日陶芸体験教室。ここで体験。〈後日作品を、送ってくれる)ここは、京都市内で唯一現役の登り窯を焼いている家(今は定かでないが、訓練校時代焼かしていただいた。もう一つ澤村先輩の登り窯も焼かせていただいた。母方の曽祖父初代鈴木清湖の工房は、清水寺門前にあった。泉涌寺に800坪の竹林を買って登り窯を開いて完全に転居しょいたのが大正13年。清水の家は妹の中條家が継がれた。ここからどこを散策されてもお好きなように。かさぎやのあんみつでもどうぞ。円山公園に抜けられるのなら「紅葉庵のあんみつでもどうぞ」景色絶景。となりの「東観荘・也阿彌」は京都で最初の弥阿彌ホテルの跡地。この庭の作品は私のです。  

Posted by こやまあきゆき at 00:53Comments(1)京都散策

2007年01月12日

宇治の朝日焼

宇治に朝日焼がある。遠州七窯のひとつ。粘土に鹿の子と呼ばれる斑点が出る。これは、科学的には、ガスが噴出した跡なのでよく見ると中心に穴が点のように開いていたりする。どちらかといえば還元でも中性気味でないとこの変化は出にくいが、だからといって中性で焼けて酸化になってもこの変化は出ない。電機窯で温度だけあげてもだめなのだ。あくまでも火力が求められる。朝日焼は当主が頭脳明晰な方だったために最新の機材もとりいれた、しかし登り窯を使った構造になっている。企業秘密かもしれないので詳しくは述べられないが、訓練校の大先輩にあたる。  

Posted by こやまあきゆき at 01:46Comments(0)京焼き

2007年01月10日

小学校の陶芸実習

円山流創作陶芸実技は、長尾谷高校などでは、正規の科目になっている。元々日本で、陶芸指導を大学に持ち込んだ先駆者が、私の名付け親の富本憲吉先生。その1期生で公私の助手を務め、京都芸大・京都教育大学・嵯峨美で陶芸指導に取り組んだのが、父の小山喜平。私の母方の祖父は、唯一すべての美術団体で富本先生と行動をともにした鈴木清。先生の美術団体創設の折には、登り窯ももっていた、泉涌寺の鈴木家の登り窯と工房・住まいを黒塀で囲んだ、通称「黒門」が、事務局となり、京都の美大の工芸家創設に当たり教授として京都に移り住んだ先生の工房は、鈴木家の一番奥に作られた。ちなみに一番手前に小山家の工房も開かれ、私は隣接する実家でうまれ育った。富本先生のご遺族からの要請で、先生の仕事の絵具や道具は、当家で保存管理されており、工房は、鈴木家当主鈴木爽司の工房になっているが、昔のまま保存されている。父は、大学以外に芦屋の適水や枚方の吉向など大学以外にも指導に飛び歩き、芸大陶芸科の留学生は、途中までほとんど父が指導していた。黒門には、アメリカ陶芸界の巨匠「フレッドオルセン」なども住み込みで若かりし頃に内弟子で学んだ一人で、かのロックフェラーファミリーを始め世界中からも見学者が訪れた。現在も一般不可だが、鈴木家にも「ひねり会」があるが、私は自分が1度料理の世界にいただけに誰でも楽しめる陶芸を指導してきた。すでに3000人を超える人が、体験している円山流の自由な陶芸は、「何が作りたい?」から始まる。1月・2月・3月も公立小学校から高校まで、予定が入っている。  

Posted by こやまあきゆき at 01:54Comments(0)円山陶芸協会