2007年10月12日
長尾谷高校の陶芸授業
私が、これまで陶芸を教えた人は、3000人を超えている。
料理人だった私は、もともと京都の登り窯のある、陶芸家一族の中で生まれた。
あまりに、空気みたいになっていたせいか、形の残る陶芸より、形が残らずに人の心に思い出が残る料理の道に進む決心をしたのが、中学生の時。
料理学校3校の見学を高3の時にしたが、私は当時あこがれのフレンチの「萬養軒」と「ナガサキア本店」に就職の問い合わせをした。前者は古典的フレンチの老舗。後者は、当時ヌーベルクイジンヌで、金賞を取った料理長がいた。和洋中華の時代に、シルクロードの料理店を作りたいの第1歩。
結局、すでに内定済みと料理学校にまず行ってください。のご返答をいただいた。何も知らない、何も出来ない。高校生の無謀なチャレンジだった。
外国語学部に進み、とりあえずバイトからと18歳で料理の世界にもぐりこむと、さっそく調理補助。
いろいろ動いている間に見習いコック。念願の2店舗もバイトからもぐりこんだ。ついに正社員内定。
そこから人生はの歯車は、フレンチの方向の大きく振られて、「プチフランセ」に就職。
しかし、無国籍料理「カプリチョース」2軒の責任者に抜擢されて、外の立場で仲間たちと店作り。
ようやく相棒笹沼の執念で、念願の店が北白川別当町にできた時、陶芸家として超売れっ子になっていた。器作りの為に学んだ陶芸で、様々な展覧会に入選して、各デパートなどからオファーが相次いだ為だ。相棒の店の器は、作ったが、お手伝いしか出来なかった。もう一人のイゴールもスロベニアレストラン「ピカポロンツァ」をオープン。今では150回を越す展覧会出品を最後に、私は、仲間たちに陶芸を教え始めた。自分だけの店を作りたい仲間たちに。やがて、2つの活動で、京都のほとんどの外国料理店のスタッフとは、友達になった。
今、若き長尾谷高校京都高の生徒たちの希望者に正規の授業として、陶芸を教えている。
もうすぐ教え子は200名を超える。授業が終わっても、アトリエに遊びに来る生徒も出てきた。
父は、京都芸術大学と京都教育大学。退職後は、しばらく嵯峨美術短期大学で陶芸指導してきた。
だれでも、自由に楽しめる時代になる事。ちょうど、世界の料理が京都で食べられる事。と同時に実現していると思う。
料理人だった私は、もともと京都の登り窯のある、陶芸家一族の中で生まれた。
あまりに、空気みたいになっていたせいか、形の残る陶芸より、形が残らずに人の心に思い出が残る料理の道に進む決心をしたのが、中学生の時。
料理学校3校の見学を高3の時にしたが、私は当時あこがれのフレンチの「萬養軒」と「ナガサキア本店」に就職の問い合わせをした。前者は古典的フレンチの老舗。後者は、当時ヌーベルクイジンヌで、金賞を取った料理長がいた。和洋中華の時代に、シルクロードの料理店を作りたいの第1歩。
結局、すでに内定済みと料理学校にまず行ってください。のご返答をいただいた。何も知らない、何も出来ない。高校生の無謀なチャレンジだった。
外国語学部に進み、とりあえずバイトからと18歳で料理の世界にもぐりこむと、さっそく調理補助。
いろいろ動いている間に見習いコック。念願の2店舗もバイトからもぐりこんだ。ついに正社員内定。
そこから人生はの歯車は、フレンチの方向の大きく振られて、「プチフランセ」に就職。
しかし、無国籍料理「カプリチョース」2軒の責任者に抜擢されて、外の立場で仲間たちと店作り。
ようやく相棒笹沼の執念で、念願の店が北白川別当町にできた時、陶芸家として超売れっ子になっていた。器作りの為に学んだ陶芸で、様々な展覧会に入選して、各デパートなどからオファーが相次いだ為だ。相棒の店の器は、作ったが、お手伝いしか出来なかった。もう一人のイゴールもスロベニアレストラン「ピカポロンツァ」をオープン。今では150回を越す展覧会出品を最後に、私は、仲間たちに陶芸を教え始めた。自分だけの店を作りたい仲間たちに。やがて、2つの活動で、京都のほとんどの外国料理店のスタッフとは、友達になった。
今、若き長尾谷高校京都高の生徒たちの希望者に正規の授業として、陶芸を教えている。
もうすぐ教え子は200名を超える。授業が終わっても、アトリエに遊びに来る生徒も出てきた。
父は、京都芸術大学と京都教育大学。退職後は、しばらく嵯峨美術短期大学で陶芸指導してきた。
だれでも、自由に楽しめる時代になる事。ちょうど、世界の料理が京都で食べられる事。と同時に実現していると思う。
Posted by こやまあきゆき at 00:58│Comments(0)
│円山陶芸協会