2006年10月13日
女子高生に囲まれて、40代最後の授業。
小学校から高校まで授業で陶芸を教えている私は、10代の目標が音楽。20代が料理。30代が陶芸。40代が、料理と陶芸に立脚したシルクロードの食文化の体系をまとめることでした。ブログにはその内容が、京都カルチャーボーイズ「こやまあきゆき・こやまきたろう・おやまゆうき」の名前で書き込まれています。まとまったのです。食文化でユーラシアが1つの文化圏であった事。陶芸も1つの文化圏であった事。その体系をまとめた私の40代最後の10月11日の講義は、陶芸を学ぶ高校生の皆さんが最初に学ぶ陶芸授業でした。毎回ほぼ男女半々ですが、今回は女子高生が多かったので、つい娘達に教えている感覚でした。毎年100名以上の教え子が増えていく訳ですが、3000人を超えると京都の町に、あちこち教え子がいます。学校の先生て皆そうなんだ。考えてみれば、いつもどこでもまじめに生きてないとたいへんですね先生て。ほんとは、私のガラではない気もしています。
2006年10月13日
鈴木卓司(叔父です)作陶展 京都高島屋で開催中
京焼きを代表する「仁清・乾山」ゆかりの地、鳴滝(衣かけの道・清滝・嵐山に別れるあたり)に、工房を構え、赤絵・色絵などで独自の世界を展開する鈴木卓司。
実は、私の叔父です。父は、富本憲吉と唯一生涯四つの美術団体で行動を共にした鈴木清、晩年の富本の工房もあった泉涌寺の通称「黒門」とも呼ばれた、鈴木家の登り窯を中心とした一角に生まれ、若かりし頃から油絵を学び「チャーチル会」にも参加。大学では哲学を専攻し、卒業後は洛南高校の教壇に立った。しかし、子供のころから親しんだ陶磁器の特に赤絵や京焼きの研究に取り組み、東京芸大教授で富本の東京美術学校時代に薫陶を受けた田村耕一に師事。伝統工芸の作家として、「赤絵の卓司と呼ばれる」近年、鉄釉など釉薬や素材の研究で高く評価され、人間国宝となった故清水卯一の指導を受けた事によって、更に幅が広がり、得意の絵画性を生かした作品は、海外でも高い評価を受けている。 続きを読む
実は、私の叔父です。父は、富本憲吉と唯一生涯四つの美術団体で行動を共にした鈴木清、晩年の富本の工房もあった泉涌寺の通称「黒門」とも呼ばれた、鈴木家の登り窯を中心とした一角に生まれ、若かりし頃から油絵を学び「チャーチル会」にも参加。大学では哲学を専攻し、卒業後は洛南高校の教壇に立った。しかし、子供のころから親しんだ陶磁器の特に赤絵や京焼きの研究に取り組み、東京芸大教授で富本の東京美術学校時代に薫陶を受けた田村耕一に師事。伝統工芸の作家として、「赤絵の卓司と呼ばれる」近年、鉄釉など釉薬や素材の研究で高く評価され、人間国宝となった故清水卯一の指導を受けた事によって、更に幅が広がり、得意の絵画性を生かした作品は、海外でも高い評価を受けている。 続きを読む