2006年07月31日
富本憲吉と官展
今日芸術院会員と肩書きがつくだけで、人間国宝と並んで、最高の芸術家の名誉と思われているが、唯一、この肩書きを放棄した人物がいる。
その人こそ、我らが富本憲吉先生である。
そもそも、日本には、日本画・洋画・彫刻の分野で、様々なグループが誕生し、時に離合集散しながら、日本の芸術を開花させた。今日芸大と名の付く大学も母体が絵画の画塾だったり。
自然と、文部省が国家的芸術運動の統合を呼びかける中で、第1部日本画・第2部洋画・第3部彫刻が、日本の芸術のジャンルとして認定された。これに続いたのが、第4部工芸。もともとすぐれた工芸の名家の師弟が、絵画や彫刻を学ぶケースが多かったこともあるが、陶芸家と称して、リーチとともに展覧会活動をはじめた富本自身が、当初建築家であり、東京の美術学校でデザイン教育に当たっていた事の存在が大きい。肩書きがなくても当時すでに一般の工芸品とはケタ違いで作品が扱われ、版画は白樺派の表紙を飾っていた。戦後無官からの再出発をしたが、晩年設立の相談に乗っていた人間国宝に自ら選出される事は、強く固辞していた。最初の認定を誰にするかで、人間国宝の価値が決まる。と逆に小山富士夫にせっとくされての受賞。おまけに親友の一人川端康成と一緒にと説得されて文化勲章までとってしまった。当時桁違いの人気作家を、官が取り込んでいった経緯はほとんど知られていない。
その人こそ、我らが富本憲吉先生である。
そもそも、日本には、日本画・洋画・彫刻の分野で、様々なグループが誕生し、時に離合集散しながら、日本の芸術を開花させた。今日芸大と名の付く大学も母体が絵画の画塾だったり。
自然と、文部省が国家的芸術運動の統合を呼びかける中で、第1部日本画・第2部洋画・第3部彫刻が、日本の芸術のジャンルとして認定された。これに続いたのが、第4部工芸。もともとすぐれた工芸の名家の師弟が、絵画や彫刻を学ぶケースが多かったこともあるが、陶芸家と称して、リーチとともに展覧会活動をはじめた富本自身が、当初建築家であり、東京の美術学校でデザイン教育に当たっていた事の存在が大きい。肩書きがなくても当時すでに一般の工芸品とはケタ違いで作品が扱われ、版画は白樺派の表紙を飾っていた。戦後無官からの再出発をしたが、晩年設立の相談に乗っていた人間国宝に自ら選出される事は、強く固辞していた。最初の認定を誰にするかで、人間国宝の価値が決まる。と逆に小山富士夫にせっとくされての受賞。おまけに親友の一人川端康成と一緒にと説得されて文化勲章までとってしまった。当時桁違いの人気作家を、官が取り込んでいった経緯はほとんど知られていない。
Posted by こやまあきゆき at 00:40│Comments(0)